・・・「香雪美術館」からの最新情報です。
《NEWS》2016.3.24朝日新聞デジタルより
国内最高峰のツインタワーへ上棟式 大阪・中之島
大阪・中之島で朝日新聞社と竹中工務店が建設中の超高層ビル「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」(西棟)の鉄骨が地上41階の最上階まで組み上がり、24日、現地で上棟式があった。2017年春の完成予定で、4年前に完成した「中之島フェスティバルタワー」(東棟)と併せ、国内最高峰の高さ200メートルのツインタワーとなる。朝日新聞社の渡辺雅隆社長、竹中工務店の竹中統一会長、日建設計の岡本慶一会長ら関係者約50人が参列。最上部に組み込む鉄骨の梁にボルトとナットを入れる「鉸鋲の儀」、梁を引き上げる「曳綱の儀」を執り行い、これまでの工事の安全を感謝し、建物の無事を祈った。「ウエスト」の地下1階~地上2階にはレストランやカフェ、セレクトショップなど約20店舗が展開。4階には「中之島★香雪美術館(仮称)」が入り、東棟のフェスティバルホールとともに文化の発信拠点となる。最上部にラグジュアリーホテルを構え、東棟と合わせ1万2千人が働く「フェスティバルシティ」が誕生する。
【中之島★香雪美術館(仮称)】
http://www.kosetsu-museum.or.jp/nakanoshima/
中之島は、国際・文化施設が集積し、交通アクセスにも恵まれる大阪No.1のビジネス・文化ゾーンであり、村山龍平が創業した朝日新聞社ゆかりの地でもあります。もうひとつの香雪美術館を中之島に開館させることで、龍平が蒐集した日本・東洋の古美術コレクションなどを、より多くの人に届けるとともに、日本の伝統美を守ろうとした龍平の想いも伝えます。また、大阪府と大阪市の進める「中之島ミュージアムアイランド構想」ともあわせて、中之島の活性化にも貢献していきます。中之島・香雪美術館(仮称)のテーマは、村山龍平が愛した茶の湯の本質を表す言葉“市中の山居”を新たに創造することです。 “市中の山居”とは、町に居ながらにして★草庵を営み、山中のような静寂な境地を味わうこと。現代の市中である中之島で、都心の喧騒を忘れる空間や風情を創造し、上質で快適な鑑賞の場をめざします。
《旧村山家住宅》
朝日新聞を創刊した村山龍平が神戸・御影に構えた居宅は、阪神間に広がった郊外住宅の先駆的存在でした。旧村山家住宅は、広大な敷地と和洋の建物を擁する明治、大正期の邸宅の面影を今に伝え、国指定重要文化財となっています。村山龍平が御影郡家の地に数千坪の土地を取得したのは明治33年頃でした。当時、一帯は六甲山の裾野の荒れ地でしたが、村山龍平が大阪から移り住んだことなどを契機に、明治、大正、昭和初期にかけて大阪の実業家達が競ってこの地域に私邸を構えました。これらの人々の土地取得は単位が千坪を下らず、いずれも豪壮な建築でした。住吉村が「長者村」、御影が高級住宅地と呼ばれるに相応しい地域となっていった由縁です。また、御影塀を巡らした村山邸の園林には野鳥や昆虫が多く生息しています。洋館と和館は起伏に富んだ地形を生かして配置され、自然と共生する生活空間が構成されています。村山邸の構成の特色は、★「茶の湯」を客の接遇の基本としている点にあります。村山龍平は、大阪の財界人達との交遊を通じて次第に茶の湯の世界を楽しむようになり、藪内流★薮内節庵に就いて茶を修めました。和館の最も奥まった北に位置する茶室棟の玄関は、まるで何処かの山寺に辿り着いたかのような印象を参会者に与えます。茶室は、「玄庵」と「香雪」の2席。「玄庵」は明治44年(1911)、薮内節庵の指導を受けて建てられました。藪内流家元の茶室「燕庵」の忠実な写しです。薮内家では、伝来の茶室「燕庵」を写して建てることは相伝を得た人だけが許される定めになっており、村山邸に★燕庵写しが建てられたのは破格の扱いでした。
《薮内家の茶》
http://www.yabunouchi-ennan.or.jp/pc/index.html
藪内家は茶家として現在十三代を数え、四百余年の歴史を伝えています。流祖藪内剣仲紹智は武野紹鷗の最晩年の弟子で、「紹」の一字を頂いています。また縁の道具も伝えられています。兄弟子千利休の勧めもあり、大徳寺の春屋和尚に参禅し、文禄四年(1596)春屋和尚より「剣仲」の道号を授かっています。また、剣仲は利休及び古田織部との親交が深く、利休から茶室「雲脚」をいただいており、織部から茶室「燕庵」と露地・表門等賜っています。当初、藪内家の住まいはまだ現在地(京都市下京区西洞院正面下ル)でなく下長者町新町のあたりにあり、ここで剣仲は92年の生涯を閉じています。藪内家が西洞院正面に移ったのは、二代月心軒が代を継いで13年後の寛永17年2月(1640)です。西本願寺十三世良如上人へ茶菓を献じて以来、今日に至るまで、正月7日には門主へ献茶が続いています。月心軒は屋敷を現在地に移した後、次第に藪内家の基礎を固め、師家相続を世襲として一子相伝を伝えることになりました。利休や織部とともに茶の湯の基盤を形成したのが剣仲、藪内流の基盤を形成したのが月心軒と、草庵の茶と書院の茶を併せもっている藪内家の原点の百年余りといえます。三代雲脚亭、四代蕉雪斎と師家を世襲相続していますが、五代不住斎は女婿として藪内家に迎えられました。不住斎は多くの著書を著し、それらは資料としても、茶道に対する指針としても今もなお貴重なものとされています。六代比老斎、七代桂隠斎、八代真々斎ともそれぞれに書、作陶などに優れた才能を現し、それらは現在の茶会でも重要な道具としての位置を占め、この百年余りが藪内流としての充実の時代といえます。九代宝林斎はちょうど明治維新のころに代を継ぎ、厳しい時代を守り、十代へと引き継ぎました。十代休々斎、十一代透月斎の時代は明治、大正時代の近代茶道黄金時代の一翼を担い、現在の藪内流の組織的な基盤を築いています。この百年余りは全ての文化がそうであったように藪内流も近代文化の花開いた時代といえます。いま、十二代猗々斎、十三代青々斎と次の時代につながる新たな期を築いています。
《藪内節庵》(1868~1940)
慶応4年1月17日生まれ。9代藪内紹智の次男で、10代の養子。随竹庵4代をつぐ。明治41年関西の茶道愛好家らと篠園会を創立。茶室設計、築庭にもすぐれた。昭和15年9月20日死去。73歳。京都出身。名は乙弥(おとや)、宗延。別号に市隠斎。
《燕庵(えんなん)》
燕庵は藪内家を象徴する茶室です。茅葺屋根入母屋造りで、ひなびた姿です。屋根の妻には「燕庵」の額が掲げられています。この額は利休から託されたもので、初代藪中斎が織部から譲り受けた茶室に新たに掲げられ、村田珠光筆と伝えられています。左方の屋根が低くふきおろされ、躙口の前に土間屁を作り刀掛け石を据えています。内部は三畳の客座を中心に、右に台目の点前座と左に一畳の相伴席を配した間取りです。躙口から入ると左手正面に床があり、下座床のかまえです。床框は真塗、光麗縁の畳を敷いています。左側の墨蹟窓は花明窓の役割を合わせもつ窓で、下地の竹に釘が打たれ、花入を掛けるようになっています。床に向かって左手に給支口と相伴席があります。相伴席は太鼓張襖で区切られ、その襖の鴨居上に板の欄間がはめられています。貴人を招いた時は襖を外し相伴席の畳をとって円座を敷き、敷居から内側を上段、相伴席を下段に見立てます。これも織部の創意によるものです。床を挟んで右手正面の茶道口の方立に竹を用いているもの、織部の好みです。点前座には中柱に皮付の赤松が使われ、点前座勝手付きは、上下二つの窓が少し中心をずらして配置され、「色紙窓」と呼ばれています。これもまた織部の工夫した窓です。燕庵は茅葺屋根の草庵茶室でありながら、貴人を迎える形式をそなえているのです。藪内家は織部から譲られた茶席を厳しく守ることで、古儀の茶法を一途に伝えてきました。草庵様式の中に書院様式を取り入れた藪内家の茶法を、燕庵は語り続けており、流祖以来の姿を忠実に今日に伝えているのです。
・・・「中之島香雪美術館」には、藪内流家元の茶室「燕庵」の忠実な写しである「玄庵」を、さらに写す(レプリカ)というから、とても楽しみです。