菅楯彦(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・谷崎潤一郎さんのこともふれておかなければなりません。谷崎さんの「細雪」「月と狂言師」は菅さんの装丁で、「聞書抄」には菅さんの挿絵があります。

◆『細雪』(上・中・下巻)中央公論社1946、1948、1948【装丁★菅楯彦】

◆『瘋癲老人日記』中央公論社1962【装丁・挿画:棟方志功】

◆『猫と庄造と二人のをんな』創元社1939【装丁・挿画:安井 曽太郎】

◆『卍(まんじ)』新生社1947【装丁:東郷青児】


たにざ1


《参考》中央公論新社創業130周年記念「谷崎潤一郎全集」

明治・大正・昭和の半世紀にわたり、常に進化しながら、膨大な数の作品を書き続けた、まさに「文豪」の名にふさわしい作家、谷崎潤一郎。人間存在そのものに肉迫した傑作の数々は、没後50年を迎えようとする今なお、日本のみならず海外でも高く評価されています。谷崎の生まれた1886年(明治19)は、くしくも小社創業の年でもあり、25歳のときの「秘密」をはじめ、「吉野葛」「盲目物語」「春琴抄」「細雪」「鍵」、晩年の「瘋癲老人日記」等、代表作の多くが雑誌『中央公論』『婦人公論』に発表されるなど、非常に強い関係を保ち続けました。谷崎生誕130周年と中央公論創業130周年を記念して、その豊かな世界を網羅した、決定版「谷崎潤一郎全集」を刊行いたします。

●第二十四巻/3月10日刊行

・瘋癲老人日記「瘋癲老人日記」

・台所太平記「台所太平記」

・雪後庵夜話「雪後庵夜話」「京羽二重」「京都を想ふ」「四季」「女優さんと私」「わが小説――「夢の浮橋」」「「越前竹人形」を読む」「「撫山翁しのぶ草」の巻尾に(笹沼源之助追悼)」「野崎詣り(池崎忠孝回想)」「おしやべり」「にくまれ口」「七十九歳の春」

・雑纂「思ひ出」「吉川英治君のこと」「吉井勇全集序」「八重ちやん」「古典再現」★「菅楯彦氏の思ひ出」「「板極道」に序す」「新々訳源氏物語序」「浄瑠璃人形の思ひ出」ほか


1963年(昭和38)9月/谷崎:78歳

・菅楯彦死去(86)、毎日新聞夕刊に談話「画人・菅楯彦さんを悼む」。

1964年(昭和39)9月/谷崎:79歳

・大阪高島屋「浪速御民菅楯彦展」パンフレットに「菅楯彦氏の思ひ出」を寄稿。


たにざ2


《参考》「依山楼岩崎」

682-0123鳥取県東伯郡三朝町三朝365-1/0858-43-0111

http://izanro.co.jp/

三朝町で沸き出るお湯のラジウム含有量が非常に豊富であることが知られ、「三朝温泉」の名前が全国に知れ渡ったのは大正時代のこと。温泉地としての三朝の将来性に着目した故・岩崎吉太郎(初代社長)は、大正9年に三徳川の岸辺に「岩崎旅館(現在の依山楼岩崎)」を開業しました。「ぎゃらりい岩崎」は1Fロビーの中央にございます。大正9年の創業以来、皇室をはじめ数多くの文人墨客に愛され続けてきた証が数多く展示されていますので、お待ち合わせやお出かけの前などにも是非ご覧ください。皇室や数多くの文人墨客にお泊りいただいた際に遺された直筆の書や詠まれた歌など、思い出の品々を展示しております。期間限定の催しも行われておりますので、お見逃しなく。

★「山村深雪」書:谷崎潤一郎/画:菅楯彦

雪ふかき 軒のつららの つらつらに

都こいしき 日をおくるかな

★年月不明ではあるが、菅楯彦夫妻が三朝温泉を訪れているらしい。

http://misasa850.com/html/information02.html


たにざ4


《参考》「吉川英治/人と作品」著:松本昭

http://corp.kodansha.co.jp/yoshikawa/

「私本太平記」は『毎日新聞』に連載(昭和33年1月18日~36年10月13日)されましたが、その当時担当編集者だった松本昭さんが「吉川英治/人と作品」の中で、その様子について詳しく触れています。

http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2008/01/post_ed34.html

当初、挿絵を担当していたのは★菅楯彦。菅楯彦はかつて谷崎潤一郎の「聞書抄」の挿絵を担当したことがあり、その挿絵の印象から、「私本太平記」の挿絵を依頼した。しかし、「聞書抄」は昭和10年の作品で、昭和30年代の菅楯彦は、年月を経て画風が変化していた。昔の画風をイメージしていた吉川英治としては、どうしてもそれが気に入らない。吉川英治は、朝、毎日新聞を手にとると、「私本太平記」が掲載された面を確認し、じりじりしながら午前8時になるのを待ち、8時になった途端に、毎日新聞の当時の学芸部長・高原四郎に、「今日の挿絵も作品のイメージに合わない」という苦情の電話をかける。それが毎日続くので、とうとう挿絵画家の交代が決まり、連載第34回から登板したのが★杉本健吉であった。それ以後、高原四郎への苦情の電話はなくなり、高原は「最初から杉本さんにしておけばよかった」とぼやいたといいます。


たにざ3


毎日新聞としては、長年『週刊朝日』の「新・平家物語」を担当していた杉本健吉をそのまま起用するのは、印象がだぶるので避けたかったはず、しかし結局はそこに落ち着いた、という話です。ちなみに、同じ年に講談社が創刊した雑誌『日本』に連載が始まった「新・水滸伝」は、初めから杉本健吉を挿絵に起用していました。ところが、こちらは、吉川英治の体調悪化のため昭和36年12月号で連載が中断。そのまま、吉川英治は帰らぬ人となったため、中断したまま絶筆となってしまいました。つまり、杉本健吉は、吉川英治作品について、連載の最初から最後まで全て完全に担当したことがないという、不思議な縁なのです。


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・・・「香雪美術館」についても紹介したいと思います。