・・・1937年(昭和12)に建設された城東区「国技館」より前に、
大正6年10月28日、新世界構内に「国技館」を建てる創立総会が開かれ、大正7年2月8日起工、同8年8月に落成した。1919年(大正8)9月12日、現在の大阪市浪速区の新世界・ルナパーク南側に、大阪相撲を中心とした興行開催を目的に「大阪国技館」がオープンした。設計は日本赤十字社大阪支部病院、愛媛県庁舎などを手がけた木子七郎。建坪501坪(1,656平方メートル)、収容人員10,000人(公称、実際はもっと少なかった)で、丸屋根の優美な洋風建築の外観を持った建物であった。当時の金額で五十万円を要したと言われる。大阪相撲協会も土橋から、この国技館の中に移された。翌13日から十日間にわたって開館記念の東西合併大相撲がはじめて『晴雨不関十日間』の名目で行われた。ルナパーク自体は大正12年に閉鎖されたが、国技館はそのままで興業を行ったが、既に大阪相撲の衰退期を迎えており、次第に大きすぎるキャパシティをもてあますようになり、1925年(大正14)の本場所を最後に、大阪相撲は相撲興行を中断。1927年(昭和2年)に大阪相撲協会は解散し、大日本相撲協会に合流する。1928年(昭和3年)には映画館の松映として再出発をはかり、以降、松竹キネマの映画と大阪松竹少女歌劇のレビューを主として興行した。建物は、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失。現在建っている「松映旅館」に映画館としての名をとどめている。跡地(スパワールド北側の階段付近)に石碑が設置されている。
《参考》フェスティバルゲート(Festival Gate)
大型遊具や娯楽施設と商業施設を合体させた「都市型立体遊園地」として、1997年7月18日に開業。総面積1.4ha、店舗面積5,700m²。約380台収容の駐車場や、約120台収容の駐輪場も設けられていた。新世界のランドマークである通天閣から見て南南西300mほどの場所にあり、東隣には、同時期に開業した★「スパワールド」がある。来場客の減少により、2007年7月31日までにほぼ全ての店舗及びアミューズメントの営業を終了。2009年1月30日に行われた競売で★マルハンが入札した。
【「大阪国技館跡」の碑】浪速区恵美須東3-4
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000915.html
大阪と相撲とのかかわりは古く、江戸とならんで相撲の興行が盛んで、大阪相撲の伝統が築かれていました。1878年(明治11)には大阪相撲協会が設立され、1905年(明治38)に難波新地に常設の興行場所が設けられました。1919年(大正8)9月には、東京両国の国技館に対抗して、この地に鉄筋コンクリート・煉瓦造、建築面積約2,000平方メートル、ドーム式の大阪国技館が建設されました。しかし協会内部で紛争が続き、組織自体が衰退していきました。1927年(昭和2)には東西相撲の合併で大日本相撲協会が設立されると、相撲興行の中心は東京★両国国技館となりました。国技館の建物はしばらく残っていましたが、第2次世界大戦前に解体されたようです。
[碑文]大阪国技館跡
大阪相撲の興行場所として、大正8年(1919)この地に大阪国技館が建設された。第二八代横綱朝日山が大阪市の土地を借り受け建設したもので、昭和戦前までこの地にあった。
・・・ここまで来たら、通天閣。
《参考》通天閣天井画
http://www.clubcosmetics.co.jp/project.html
クラブコスメチックスの前身である「中山太陽堂」は、初代通天閣のエントランス大天井に、クジャクや季節の花々を配した大変華やかな天井画の広告を掲出していました。同じ時代、共に地域の発展に向け歩んできた通天閣様とのご縁をきっかけに、この度、当時広告として掲出していた天井画を、100年の時を超えて現代に甦らせました。
・・・古くて新しい「通天閣」、まさしく「新世界」です。