・・・調べるほどに問題が多く出てきて、こんなに苦労するとは予想していませんでした。作品や建築の制作(竣工)時期と表彰年度に開きがあったり、表彰されたものが特定できなかったり。また、表彰年度と開催回が食い違って表記されていたり、年度という場合、その年の4月から翌年の3月までの扱いであることによって表記が混乱していたり。さらには、会社(組織)と個人、依頼主と施工担当など、被表彰者を明確にできなかったり。再掲を含め、あらためて年代順にできるだけ整理しつつ、理解を深めるための脱線・寄り道も加えていきたいと思います。
★1990.10第1回大阪市都市環境アメニティ表彰「地球樹」作:坂根進
541-0051大阪市中央区備後町3-3-3「サンビル備後町ビル」(元:藤井毛織ビル)
★1990.10第1回大阪市都市環境アメニティ表彰「空の鼓動」作:新宮晋
540-8510大阪市中央区城見2-2-33「読売テレビ本社」
・・・「大阪市都市環境アメニティ賞」について大阪市の回答では、★1990年度(平成2)に創設し、モニュメントについては、企画、デザイン、管理に優れ、市街地の景観及び環境の向上に貢献すると認められるものとして、平成15年度までに★約60件の施設を表彰した。ということは、平均すると毎年4~5件を表彰したことになるわけです。栄えある第1回表彰は「地球樹」と「空の鼓動」、さらに「壁詩」を発見しました。
★1990滝本明
531-0076大阪市北区大淀中1-1「新梅田シティ」
1943年、大阪生まれ。広島で幼少年期育つ。大阪府立西野田工業高校建築科卒。大阪文学学校13期詩研究科卒。在学中、小野十三郎氏らに学ぶ。1968年『たきもとめいの伝説』にて三洋新人文化賞・文学詩部門受賞。1969~1971年個人詩誌「緑の狼」。1989年「新梅田シティ工事塀アートメッセージ・壁詩」で★今井祝雄★西村建三さんらと第1回大阪市都市景観アメニティ表彰を受賞。1991年詩表現のCIでニューヨークアートディレクター賞ノミネートなど。
《新梅田シティ》
梅田スカイビル、ウェスティンホテル大阪を中心とする複合施設。JR大阪駅の北西に位置する。旧ダイハツディーゼル本社・大阪工場跡地、旧東芝関西支社跡地とその周辺地域の再開発の一環として、計画地を所有していた4社の共同事業合意が1987年になされました。その瞬間が超高層ビルの建築ではなく、都市機能のひとつのまとまりという意味での”都市”を生み出す6年間にわたる開発プロジェクトの始まりでした。1988年2月、まちづくりのコンセプト決定。8月、計画地でイベント「街角キャンバス」実施。1989年3月マスタープラン完成。1990年2月地鎮祭、7月着工。1993年3月に竣工した。
・・・なんと「詩」と「造形」、しかも「工事塀」で3人のコラボ。その実物(画像)を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。滝本明さんについて、いろいろ調べたことを紹介しておきます。
《参考》淀川河川公園を楽しむ情報誌「葦笛(よしぶえ)」
淀川河川公園広報委員会事務局/(財)河川環境管理財団
570-0096守口市外島町4-18/06-6994-0006
http://www2.kasen.or.jp/yoshibue/
「淀川河川公園と私」/記:滝本明
一行の淀川に、物書き達の夢を見る
http://www2.kasen.or.jp/yoshibue/yoshi26/yoshi_7.html
川に沿って人は住む。その暮らしに沿うように、川もまた人々の記憶の中を流れている。それはとても自然な事だ。文学にしばしば川が登場するのは、時間という川に人が沿って生かされていて、心に物語が発生するからだと私は思う。川はその象徴なのだ。友人に誘われて、1998年の「よしぶえ」から淀川歴史散歩のコラムや詩を書きはじめた。私は昭和18年の大阪生まれだが、歴史的な淀川を詳しく知らない。父は戦死していて、親類預けの少年時を過ごした。母と此花区で暮らした中学生の頃、友達と淀川河口によく出かけた。昭和30年代頃の堤防は土の道で、護岸は石積みの長い斜面だった。夜明け前の岸辺には、ハゼ釣りの人達がいっぱいだった。夏には手製のヤスで、石垣の間のウナギ突きをよくした。河口左岸横の日立造船沖は遠浅で、葦の間をイナが走るように泳いでいた。後に「大阪文学学校」で詩を教えてもらった小野十三郎さんは、この大阪北港付近の重工業地帯を「葦の地方」と呼び、短歌的抒情を排した厳しい風景を詩にされた。今思えば危険極まりないが、満潮時に数人で、伝法大橋下から板切れに掴まり下流の向こう岸に泳ぎ着いたことがある。真ん中の本流は黒々としていて、河童が出ると噂されていた。対岸の畑でもいだキュウリがうまかった。
後で知ったが、対岸の伝法町には少女時代の富岡多恵子さんがいたらしい。彼女は小野さんに師事した。私が知る限り、「淀川」を最も多く現代詩に書いたのは、寝屋川の農民詩人井上俊夫さんである。井上さんは戦後の詩の前衛グループ「山河」などに属されていて、小説も書かれていた。私は文学学校で教えを受けたが、歴史資料の交野郡庄屋の覚え書をそのまま詩作品にした「惣七家出一件」は衝撃的だった。「三十石船」も詩にされていて、半裸の船乗りたちが掛け声をかけ方向転換するシーンがドキュメント的で迫力があった。「井上俊夫詩集(五月書房)」には「鳥飼の渡し」の章がある。その中の1編「宝積寺三重塔」は、山崎天王山中腹の寺で、塔とそこからは見えない淀川をスケッチする少女の幻想的な話である。[宇治川、木津川、桂川という三つの河が まるで三角関係を精算するため 心中することにきめた 一人の男と二人の女のように 手に手をとりあって落ちのびて行くうち ついに一本の淀川と化する いわゆる三川合流地点の艶な風景を 背にして立つがゆえに この塔はいよいよなまめかしく また常にこの塔をみあげながら流れるがゆえに 山崎付近の淀川はいやがうえにも 臈たけた流れとなって行くのだ]…。井上詩のミステリアスでエロチックな展開が私は好きだった。私の歴史散歩は山崎地区から始まった。毛馬地区には蕪村碑がある。30年程前だった。今は中原中也の研究家として著名な詩人の佐々木幹郎が、淀川の水門管理の会社で働いていた。大雨の時訪ねて来た若い藤井貞和(詩人・源氏物語の研究者)らは、大堰のゴミ取りを竹竿で手伝わされた。私も土手の仮設の事務所で半日話し込んだことがあった。当時佐々木は、高まる学生運動から離れ、毎日淀川の水を眺めながら蕪村のことを考えていたはずだ。蕪村が生まれた毛馬村は石碑から300米の淀川本流内にある。「春風馬堤曲」「澱河歌」で、帰ることのなかった故郷の淀川を、老年になって歌った天明俳壇の革新者の心…。後に蕪村論を出版するこの友人は、若い蕪村のように上京した。千年前の紀貫之、旅の西行、蕪村、西鶴、谷崎潤一郎…。資料には淀川に佇む様々な物書き達が登場する。時に時空を超え、私も彼らの目で長い一行の物語のような堤の上に立ってみる。
★訃報:滝本明さんは2006年4月29日に亡くなられました。1943年3月29日生まれ、満63歳になられたばかりでした。新刊の評論集『余白の起源』(5月30日刊)は亡くなった直後にできたそうで、ご本人の「あとがき」は4月12日となっています。「支路遺耕治へのレクイエム」等によれば、滝本明さんは、1998年末に敗血症で緊急入院され、壊死性胆嚢炎で全摘手術、一時危篤状態になられたが、翌年1月退院、回復に向うも体力不足で右足骨折、読み書き困難で白内障の両眼手術で再入院され、7月21日退院されたそうです。その1週間後、木澤さんから昨年11月末に支路遺耕治が亡くなっていることを告げられ、「衝撃」を受けます。その後、「この二年間、心不全、腎不全、脳梗塞と、幾度も緊急入院を繰り返した重篤状態」だったそうです。ご本人の「あとがき」によると彼の奥さんは、彼の母親の介護をしながら働き、帰宅後に彼の看護を続けたと記しています。息子さんは、音楽活動(バンド等)とフリーペーパー(1万部)をやっておられるそうです。
・・・「工事塀アートメッセージ・壁詩」を調べていると、様々な「工事塀(仮囲い塀)アート」を発見しました。おもしろいのを紹介します。
★2003イチハラヒロコ+(株)TAKリアルティデザイン事業部
http://www.takenaka.co.jp/enviro/es_report/2005/general/affiliates/index.html
都市の景観は都市環境保全の重要な要素で、仮囲い塀で囲まれた工事現場も例外ではなくなりつつあります。このような状況の中で、(株)TAKリアルティデザイン事業部が手がけた、そごう心斎橋店の工事用仮囲い塀に付設された「そごう心斎橋店 仮囲いアートプロジェクト Vol.1」が、2004年3月、平成15年度(第14回)大阪市都市環境アメニティ表彰を受賞しました。同賞は、大阪市が都市景観および環境の向上を図ることを目的に、平成2年度に創設したものです。今回受賞した仮囲いアートは、そごう心斎橋店の工事現場を囲う仮囲い塀の御堂筋側に描かれた計11点のランゲージアート(言葉の芸術)。「良縁望む」「できることは山ほどある。」「小さな声だが聞こえている。」など、現代美術家★イチハラヒロコさんの作品が白地に黒いゴシック体の文字でくっきりと描かれています。建設作業所は仮囲い塀で囲まれていて隔絶された世界との印象を与えがちですが、今後もさらに芸術性の高いアートを創作することで、通行人や地域とのコミュニケーションを少しでも高めていきたい、と考えています。