天下茶屋(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000142001.html

http://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000304922.html

・・・なぜ「天下茶屋」に「おかき屋」が多いのか、「天下茶屋あられ」の中島満男さんは、“この辺りの地下水の水質が良かったからだと言われています。私は西成区が大阪市でも雨の少ない地域だからだと思っています。おかきは、いったん天日で乾かしますからね。”と語っておられます。


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・・・西成区だけの雨データは調べることはできませんでしたが、全国的にみて大阪の年間降水日数は少ない方でした。大阪は、瀬戸内式気候で雨の少ない地域であり、ため池が多くありました。さらには、雨乞いや晴れ乞いに関係した神社もあります。 西成区には、


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【生根神社】

557-0045大阪市西成区玉出西2-1-1006-6659-2821

http://ikune.net/

創建時期は不詳であるが、一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった★生根神社(「奥の天神」現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。また、それ以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。洪水で流された西宮神社の神体が当地に流れ着きこれを祀っていたが、西宮神社に神体を返還した後も分霊を奉祀したのが当社の創建であるという。明治初年、大坂の筑前屋敷に祀られていた筑前天満宮を合祀した。1945年3月14日の大阪大空襲で被災し社殿を焼失したが、神体は速やかに住吉の生根神社へ移したため無事であった。戦後仮社殿を造ったのち、1966年10月に鉄筋コンクリート建築の社殿や社務所などを復興した。


生根神社には★「だいがく」が伝えられている。だいがくは漢字表記では「台楽」または「台額」となり、古来から★雨乞い神事に使用された、高さ約20mの柱に約70個の提灯を飾り付けた櫓のことである。かつては大阪市南部周辺の神社にも「だいがく」があったとされている。しかし、生根神社以外のものは第二次世界大戦の戦災で焼失し、疎開によって難を逃れた生根神社の1基のみとなっていた。この「だいがく」は1972年3月、大阪府の有形文化財に指定され、指定記念として中だいがくと女性だいがくが新造された。現在、7月24日~25日にかけておこなわれる夏祭りの2日間のみの公開となっている。夏祭りには浜村淳が毎年参加しており、2010年には自ら奉納した俳句「いざうたえ だいがく音頭に 夏の月」が刻まれた石碑が建立された。

当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、当地の名産であった小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念した塚。江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名ななにわ野菜であった。勝間商人によって、勝間街道を使って大坂まで行商された。中風除け、風邪除けとして冬至にはよく食べられたという。当神社でも冬至に「こつまなんきん祭」として、蒸しかぼちゃを参拝者に振舞う「こつま南瓜蒸し」神事が行われる。蒸しかぼちゃを食べ、中風除け・ボケ払い・無病息災を祈願する。当日はなにわの伝統野菜から作った飴や、こつま南瓜が原料の焼酎も販売される。


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《天下茶屋》

667-0042大阪市西成区★岸里東2-10-9

この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師にあたる★武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。天正年間 (1573~1592) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという。慶長十四年三月三日(1609年4月7日)には、父・林玄蕃を闇討ちにした当麻三郎右衛門を、玄蕃の遺児・重次郎と源三郎の兄弟が9年間におよぶ苦難の末に、この地で見事に討ち取っている。この「天下茶屋の仇討」は当時代表的な仇討ち事件として講談や歌舞伎などに取り上げられ、その結果「天下茶屋」の名が日本中に知れ渡ることになった。もとは西成郡勝間村に含まれ、紀州街道に面した新家で「勝間新家」と呼ばれていたが、天明から寛政年間にかけて東成郡天王寺村に含まれるようになった。天下茶屋の集落は天王寺村の集落の一つとなったものの、天下茶屋の地名は現在の西成区岸里東二丁目付近を中心として、天王寺村・勝間村および西成郡今宮町の3村の境界付近を広く指す地名となっていた。


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明治時代後期になり、地域の東部は郊外別荘地としての開発が進められた。また地域の西部でも、大阪市の発展に伴って住宅地へと変化していった。日露戦争の際には、俘虜収容所や付属施設などが一時期設置されていた。俘虜収容所は天下茶屋駅の北西にあったと伝えられるが、存在したことは当時の新聞記事で確認できるものの、資料が乏しく正確な位置や規模はわかっていない。俘虜収容所閉鎖後に土地は地主らに返還されたものの、元の農地に復元するのは困難として、当時の今宮村が耕地整理組合を作り、住宅地としての開発を図って碁盤目状の路地へと区画整理した。南から柳通・桜通・橘通・松通などの東西の道路が作られた。一帯は東成郡天王寺村および西成郡今宮村(のちに今宮町)・西成郡勝間村(のちに玉出町)となっていたが、1925年にいずれも大阪市に編入された。なお、大阪市編入直前の天王寺村は人口が5万人を超える日本一の大村となっていたが、人家が最も集中していたのが天下茶屋であった。旧天王寺村の区域は住吉区となり、1929年に天下茶屋や松田町・聖天下・天神ノ森の町名が設定された。当時の天下茶屋の町名の範囲は現在とは異なり、おおむね現在の天下茶屋二丁目および同三丁目のそれぞれ東半分と、岸里東の東半分に相当する。聖天下の町名は、「天下茶屋の聖天さん」こと★「正圓寺」の坂下にあることに由来する。また天神ノ森の町名は、★「天神ノ森天満宮」に由来する。


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また旧今宮町および玉出町の区域は西成区となり、旧今宮町地域では編入と同時に旧字を引き継いだ町名が設定され、また旧玉出町では編入2年後の1927年に町名が設定された。1943年に大阪市の行政区の境界変更がおこなわれ、天下茶屋・松田町・聖天下・天神ノ森の各町が、住吉区から西成区に編入された。1945年には大阪大空襲で地域一帯が被災し、天下茶屋の地名の由来となった屋敷も焼失した。1973年11月には西成区全域で住居表示を実施し、現在の町名となった。天下茶屋の町名の範囲は全体としては北西に移動した形となり、天下茶屋駅東側、南海本線・松虫通・阪堺線・大阪市道津守阿倍野線に囲まれた地域に天下茶屋の町名が設定された。一方で従来天下茶屋の町名だった南側については、西側の町と統合される形で岸里東の町名が設定された。また松田町のほぼ全域に天下茶屋東の町名が設定された。天下茶屋の地名の起こりとなった場所は、現在の住所表示では「天下茶屋」ではなく★岸里東二丁目となっている。