大坂画壇 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・菅楯彦さんが「大阪市名誉市民第1号」ということについて、大阪市に問い合わせておりましたが、丁寧な回答をいただきました。


《回答》

菅楯彦さんは★昭和37年4月14日に名誉市民の称号を受けられています。名誉市民は「大阪市名誉市民条例」により定められた制度であり、「市民又は市に特に縁故の深い者で、政治、経済、学術、技芸その他社会文化の進展に貢献し、その功績が卓絶する者には大阪市名誉市民の称号を贈ることができる。」また、「市長は市の賓客として来訪した外国人又は市に特に縁故の深い外国人には、特に大阪市名誉市民の称号を贈ることができる。」と規定されています。大阪市名誉市民条例は下記のリンク先の大阪市例規データベースにてご確認いただくことができます。

http://www1。g-reiki。net/reiki37e/reiki。html

【大阪市名誉市民条例】(昭和35年8月4日 条例第30号)

大阪市名誉市民条例をここに公布する。

1条 市民又は市に特に縁故の深い者で、政治、経済、学術、技芸その他社会文化の進展に貢献し、その功績が卓絶する者には大阪市名誉市民の称号を贈ることができる。

2条 名誉市民の称号は、市長が議会の同意を得てこれを贈る。

3条 名誉市民には名誉市民章を贈る。

4条 名誉市民の氏名及びその事績の概要は、市公報に登載してこれを公表する。

5条 名誉市民に対する待遇については、市長が定める。

6条 市長は、市の賓客として来訪した外国人又は市に特に縁故の深い外国人には、特に大阪市名誉市民の称号を贈ることができる。

2 前項の規定による名誉市民については、第1条から前条までの規定を適用しない。

7条 この条例の施行に関し必要な事項は、市長が定める。

附 則(昭和37年3月23日施行、告示第75号)

この条例の施行期日は、市長が定める。

《問い合せ》大阪市政策企画室秘書部/秘書担当06-6208-7238


かいと1


・・・「関西大学校友会」★昭和37年5月15日付第86号に「名誉市民・祝賀会」についての記事が掲載されていました。

大阪文化の発展につくした功績によって日本画家・菅楯彦氏とともに大阪市名誉市民の称号を贈られた白川朋吉の栄誉を祝って、大学と校友会共済の祝賀会が、さる4月28日午前11時から新大阪ホテル宴会場で開かれた。名誉市民章を首にかけた白川朋吉氏と菅楯彦画伯、白川氏夫人ますえさんを中心に、佐藤知事、中井市長をはじめ商工会議所会頭、高裁長官、高検検事長、市会議長、弁護士会長、その他文楽、香川県人会関係者多数を加え、大学・校友会関係者ら合わせて200名が出席した。


《白川朋吉》(1873~1963)

弁護士、実業家、関西大学理事長、大阪弁護士会会長、大阪市会議長、阪堺電鉄・琴平参宮電鉄社長、★大阪市名誉市民第1号。

1873年(明治6)12月2日香川県に生れる。明治21年、医師を志して上阪、志半ばにして法律に転身し、明治27年、関西法律学校に入学、翌年東上して東京法学院(中央大学の前身)に転入、明治31年同院法科を卒業。同年弁護士試験に合格。明治34年大阪で事務所を開く。明治35年、江戸堀校舎新築の基金募集委員、明治45年福島学舎の校舎拡張常務委員、大正2年、社員を経て、大正6年に監事に就任。翌年大学設置拡張委員、大正8年、 協議員・監事に再任。大正10年から理事として大学昇格問題に尽力するなど経営の中枢に携わった。 この間、大正11年、大阪弁護士会長、大正14年、大阪市会議長(昭和4年再選)を務めている。再び、昭和18年、本学理工学部設置の議により調査委員に選ばれ、翌年関西工専を実現させたあと相談役に就任。昭和21年、寄付行為改正委員長をつとめた。昭和27年理事長時代(昭和31年まで)には第1学舎を始めとして、高中学舎、工学部学舎及び秀麗寮等の建設に尽力して本学発展のために貢献した。一方、阪堺電鉄社長など勤めた。昭和37年市政・文化の貢献により大阪市最初の★名誉市民に推された。趣味は★絵画の鑑賞と蒐集。1963年(昭和38)1月30日没した。89歳。

《佐伯祐三画会》

佐伯祐三が帰国後、第2次渡仏の費用を捻出するために、大阪において「佐伯祐三画会」が結成されるが、その中心的な役割を果たしたのが四国出身の★白川朋吉だった。佐伯が1927年(昭和2)ごろ、再渡仏の費用捻出を近くの戸塚町866番地(高田馬場4丁目)に住む二科の藤川勇造に相談したところ、関西の法曹界では高名な白川朋吉を紹介されたのがきっかけだったようだ。この画会(頒布会)を通じて、おもに佐伯がこの時期に国内で描いた作品、すなわち「下落合風景」作品が関西や四国方面へ大量に流れていると思われる。


・・・「名誉市民第1号」は★2人おられました。さて、にもかかわらず菅楯彦さんがあまり紹介されてこなかったのは、どうしてでしょう。興味深い本を見つけました。


かいと2


【大坂画壇はなぜ忘れられたのか】

岡倉天心から東アジア美術史の構想へ/著:中谷伸生

忘れられた大坂画壇の再評価/岡倉天心の思想を踏まえた東アジア美術史の構想/近代美術史の学問的意味/そして美術史学とは何か。狩野派、四條派、文人画派、近代美術など/多数の未発表作品の紹介による近世・近代絵画史論。

《中谷伸生》

1981関西大学大学院哲学(美学美術史)専攻博士後期課程単位修得後退学。大坂画壇の研究で博士(文学)。三重県立美術館学芸課長を経て現職。専門は日本近世近代絵画史、岡倉天心の芸術論、現代美術批評。1999年から2000年にかけてロンドンの大英博物館で研修。近年は耳鳥齋の戯画や木村蒹葭堂周辺の文人画家を東アジアの文化交渉学の観点から研究。著書に『大坂画壇はなぜ忘れられたのか-岡倉天心から東アジア美術史の構想へ-』(醍醐書房、2010年)。

・・・また、関西大学創立120周年記念講演会として、中谷伸生さんは『大坂画壇の絵画』について語られています。要約しますと、

「東京一極集中」「大阪経済界の没落」「西洋に傾斜した文化の紹介」

「批評や研究の対象が西洋美術の影響を受けた作品に集中」

「フェノロサと岡倉天心の価値観が、美術史学及び美術批評に決定的な影響を与えた」

結果として、中国的要素の濃厚な大坂の画家たちの絵画が研究対象から除外され、著しく低く見られることになった。


かいと3


NEWS》2008.4.9産経新聞より

「大坂画壇」絵画、流出に泣く/欧米注目、投げ売り状態

江戸中期から戦前まで「東京画壇」「京都画壇」と並び、多くの作品を生み出した「大坂画壇」の絵画が、大英博物館や米ボストン美術館など海外に流出し、大阪から姿を消しつつある。大坂画壇のレベルは東京、京都画壇と遜色はないが、価格が約10分の1というのが大きな理由。財政難の大阪の自治体は絵画購入まで手が回らず、美術関係者からは「公立美術館で流出防止の手を打つべきだ」との声も上がっている。大坂画壇は江戸中期から商人の支援を受け、文人画を中心に質の高い作品を数多く生んだが、大阪経済が力を失うに従い支援者を失っていった。研究者も少なく、忘れられた存在になり、現在では投げ売り状態に近いという。

【大坂画壇】

江戸時代中期は、それまで主導的立場にあった流派が衰退の途をたどるなか、新しい絵画創造の道を模索しつつ、さまざまな画系が生まれていきました。大坂では、狩野派の系譜をひく狩野画系、四条派や森派などの写生画系、中国南宗画の影響を受けた文人画系、浮世の風俗や美人を描く風俗画系など、数多くの画系が隆盛し、江戸時代後期の画壇を多彩に彩っています。


かいと4

1981年(昭和56)

「近世の大坂画壇」展/大阪市立美術館

1992年(平成4)

「近世の大阪画人」展/堺市博物館

1997年(平成9)

『関西大学所蔵大坂画壇目録』/刊:関西大学図書館

2007年(平成19)

「かえるの絵描・松本奉時と近世大坂画壇」/大阪歴史博物館

10月3日(水)~ 11月5日(月)

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2007/kaerunoekaki.html

江戸時代後期の大坂で活動した松本奉時(生年不詳~1800)は、表具師を営んでいました。彼は蛙をこよなく愛し、珍しい蛙の飼育や様々な蛙グッズのコレクションをしたと言われています。また彼は蛙の絵を描き、当時たいへんな評判を得ていました。今に伝わる彼の絵は、その大胆な構図や勢いのある筆使い、愛らしい表情など、現代人にとっても親しみ深い作品となっています。奉時は自ら絵筆を取るだけではなく、同時代の優れた書画の収集も行いました。彼は各地で活躍していた当代一流の書家、絵師、文人に揮毫を求め、その作品を画帖に仕立て上げました。それらのうちには当時の帝・光格天皇が御覧になった画帖もあり、極めて質の高い作品を集めていたことが分かります。本職は表具師ですが、書画の収集を通じて、一流の絵師や学者との交流が生まれ、大坂の地にすばらしい作品が集まったことは文化的に特筆すべき出来事といえます。本展示では奉時の描いた絵画と収集した書画を中心に40点の作品を展示します。江戸時代を代表する絵師として評価が高い伊藤若冲1716~1800)とも交流し、その影響を受けた作品も展示します。手間や金銭を惜しまず、一流の品々を集めて文化の向上に貢献した大坂町人の努力の跡をしのんでいただければ幸いです。


かいと5


2009年(平成21)

秋季企画展「上方ゆかりの絵師たち」/花園大学歴史博物館

11月2日(月)~12月26日(土)

http://www.hanazono.ac.jp/event/20091024-2179.html

関西経済の中心地である大阪は、古くから商業都市として栄えてきました。江戸時代に商人の町として発展した大坂は、文化的にも大きな飛躍をとげます。それと同時に、大坂には多くの絵師たちが居を構えるようになり、京都画壇に対して「大坂画壇」が形成されていきます。森徹山を中心とする森派や四条派の流れをくむ絵師たち、さらには大坂の地が多数輩出したいわゆる文人画家など、近年その存在が広く知られるようになり、研究も進められています。しかし、これらの絵師たちについては、いまだ謎に包まれた部分も多く遺されているといってよいでしょう。本展覧会では、本学ゆかりのコレクター枩子菴・竹子庵のコレクションのうち、大坂画壇を中心とする上方ゆかりの絵師たちの作品を展示します。

2012年(平成24)

「三都画家くらべ・京、大坂をみて江戸を知る」展/東京・府中市美術館

2013年(平成25)

「なにわユーモア画譜―関西大学所蔵大坂画壇コレクションを中心に―」/大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)

4月20日(土)から5月26日(日)

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/toshiseibi/0000209785.html

大阪では江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて「大坂画壇」といわれる画家たちが優れた作品を数多く制作しました。本展覧会では、関西大学図書館が所蔵する「大坂画壇コレクション」の中から、大阪らしく滑稽でユーモアに富んだ作品を中心に約70点の作品を展示します。


2015年(平成27)

「江戸時代の文人ネットワーク-松平定信から遠州南画の画家たちへ-」/静岡県浜松市・平野美術館

4月4日(土)~2015年5月31日(日)

江戸時代中期、中国で教養人の嗜みとして流行した文人画(南宗画)が日本に渡来し、京・大坂といった上方で日本的な文人画(南画)としてもて囃されたのち、江戸に伝わります。その南画を江戸で大成させたのが谷文晁です。文晁は、江戸画壇を代表する画家として知られ、その門下から渡辺崋山らの優れた画家を輩出し、関東を中心に19世紀日本の南画壇に大きな影響を及ぼしました。

NEWS1》2015.9.26東京新聞より

「唐画(からえ)もん」/千葉市美術館

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/0908/0908.html

9月8日(火)~ 10月18日(日)

岩に止まる一羽のワシが、鋭く虚空をにらむ。水墨画「大鷲図」。勢いのある筆致で、羽毛の質感まで再現する多様な表現が技術の高さをうかがわせる。描いたのは江戸時代中期に大坂で活躍した絵師、林閬苑((ろうえん)。当時の「大坂画壇」に光を当てる千葉市美術館(中央区)の企画展「唐画(からえ)もん」で展示中だ。


NEWS2》2015.11.25毎日新聞より

「唐画もん~武禅に閬苑、若冲も」/大阪歴史博物館

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2015/karaemon.html

10月31日(土)~12月13日(日)

昨今の展覧会で取り上げられる江戸中期の絵画は、京都か江戸で活躍した絵師が大半で、大坂の絵師は影が薄い。その大坂を拠点に、当時流行していた中国絵画の粋を取り入れた「唐画(からえ)師」に焦点を当てた特別展が、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開かれている。名付けて「唐画もん~武禅に閬苑、若冲も」。展覧会の主役は2人。タイトルに含まれた墨江武禅(1734~1806)と、林閬苑(生没年不詳、1770~80ごろに活動)だ。