・・・近松門左衛門や竹本義太夫を追いかけて「あべの発見」が滞っていましたので、再開(再開発?)します。
《NEWS》2008.1.12読売新聞より
阿倍野再開発を見越し★「あべのSOHO」というコンセプトで、若手起業家や文化を担う人々を集積させる民間の取り組みが模索された時期があった。阿倍野体育館の裏手、ちょうど、現在のHOOPから南へ下ったところに、フリーマーケットのスペースや劇団、おいしい手作りパンの店やしゃれた創作料理の店がぽつぽつ出始めていた。ところが、再開発はいっこうに進まず、先行して出店していた★「あべのベルタ」は、主力テナントが相次いで撤退、テナントビル内のシャッターどおりが続くという異常事態が続いた。
《参考》【SoHo=South of Houston Street】
ニューヨーク市マンハッタン南西部の地区。1960年代に倉庫などを利用して芸術家たちが住むようになり、前衛芸術・ファッションの中心地となった。
《あべのベルタ商店街振興組合》
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋3-10-1-100号/06-6634-3226
日本一の超高層ビル “あべのハルカス”が、今日も輝いています。 ベルタの前からは、 とてもよく見えます。最近は外国の方もよくご存知なのか、ベルタの前から撮影されているのをお見かけします。撮影の後は、是非ベルタ館内へお越しくださいね。ハルカスの賑わいをよそに、昭和の面影を残す“あべのベルタ”は地元色たっぷりに、ゆったりと時が流れています。開業当時からのお店も、何店か頑張っています。もちろん若いお店も趣向を凝らして、皆様のお越しをお待ちしております。
《阿倍野SOHOアートプロジェクト》06-621-9241
過疎に悩んだり、地域の活性化を望んでいるのは、地方の山村だけではない。都市でも同様の問題を抱えている。御多分にもれず、大阪や京都、神戸の中心部でもそういった現実に直面している。そこで、注目されはじめたのがアーティストの存在だ。芸術文化の担い手である芸術家たちを支援したり、アート・イヴェントを催すことが、豊かな街づくりを進めていくことにつながるといった考え方が、ここ何年かの間に広く浸透してきた。大阪では★「阿倍野SOHOアートプロジェクト」と呼ばれる計画が、先陣をきって93年にたちあがり、阿倍野(大阪市阿倍野区)の街を、新しい芸術文化の発信基地にしようといった動きが出てきた(SOHOというのはもちろんNYのSOHOを意味している)。広いアトリエを借りるには経済的な負担を強いられるため、若いアーティストの多くが、制作の場を求めていることに目をつけたプランナーが働きかけたものだ。これはバブル崩壊後、土地は買収したものの、計画されていた大規模なプランの頓挫などで、住民もいなくなった地域の空洞化を何とかしなくてはいけない、ということで動き出した遊休地利用策でもあったと思う。使用されていない建物をアトリエやギャラリーとして提供したり、活動する若者の様子を取材したフリーペーパーを発行するなどしていた。しかし、いつの間にかフリーペーパーもみかけなくなり、大がかりなイベントも姿を消した。当初と比べると、影が薄くなったものの、今もこのあたりの広い工場跡などをスタジオとして制作を続けているアーティストはいる。
【吉川宏一】★ネットワーク「地球村」理事
1951年大阪市生まれ。神戸大学工学部建築学科卒。79年吉川建築研究所、87年(株)ノモス設立。90年東心斎橋にギャラリー兼飲食店「トリコロール」開店。同年ニュージーランドへ移住。93年★アベノSOHOアートプロジェクトを仕掛ける。他のプロデュース物件に「遠東」「東インド会社」「トリコロール」「MOMA」「Bar,isn't it?」など。2000年ナチュラル&オーガニックレストラン「SOLVIVA」オープン。「ビアン・シュール」「テテ・ア・テテ」「hale hale organic cafe」「韓民酒家HANA」「有機茶寮」「里山カフェ」など展開。opti c@fe心斎橋店のオーガニックカフェ「SOLVIVA CAFE」も手がける。ニュージーランドでぶどう園、滋賀県高島市でSOLVIVA農園を運営。
《ネットワーク「地球村」》
530-0027大阪市北区堂山町1-5-301/06-6311-0309
美しい地球を願う人々で構成されたネットワークで、さまざまな情報発信や提案を行うことで一人ひとりが力をつけ、社会を変えていくキーマンになってもらうことを主眼としています。
《常盤通駅》
★大阪馬車鉄道として現在の阪堺電気軌道上町線が開業した時設置された、現在の天王寺駅前・阿倍野間の併用軌道上にあった駅。駅があった場所は、現在のみずほ信託銀行阿部野橋支店の前(地下鉄谷町線阿倍野駅北出入口付近)にあった。駅名の由来は、その近くにあった「常盤通」に由来。★通りに石碑が残されています。
《常盤通》
http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/page/0000001309.html
明治の終りごろ生まれた私称の町名に常盤通があった。★庚申街道の阿部寺遺跡のあたりを起点に西へ、阿倍野筋2に突き当たり、右折して北に進み、★七道の辻を左折して電車道に出る道筋をさしていた。★阿部寺の遺跡には、大正の中頃まではこの地に天にそびえる松の大木があり、この常緑の常盤木が名称の由来となったといわれている。阿倍野橋ビル(元:第-勧業銀行)南側に古い石碑が建っているが、四面とも「常盤通」と刻まれ、正面だけ上部に小さくローマ字で常盤通の名と天王寺村の村名が刻まれている。現在、小学校名・連合町会名などにその名が残っている。
《庚申街道》
1988年、近鉄南大阪線の立体交差事業完成を記念して近鉄と地元「庚申街道を守る会」の起案で近鉄及び大阪市建設局の手により、近鉄大阪阿部野橋駅東の松崎口にあるサンクンガーデンに街道の歴碑が残されている。本来の庚申街道は阿倍野区松崎町から文の里・田辺方面へ向かっていたが、現在、あびこ筋の1本西側の西田辺・長居方面へ向かう道を地元では「庚申街道」と呼んでいる。街道沿いは小中学校や専門学校などが多く見られ、普段から人通りが多い。
《馬車鉄道跡の碑》 (東天下茶屋駅構内)
http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/page/0000001570.html#09
1900年(明治33)天王寺西門前から東天下茶屋間に阪堺電気軌道の前身となる大阪馬車鉄道が開通し、レールの上を馬車が走りました。その後、沿線一帯の開発とともに電化に切り替えがすすみ、馬車鉄道は廃止されました。
・・・新しいものと古いものが交差する「アベノ」って、おもしろい。