・・・「八軒家浜」にあったという燈籠を探して、
《川崎孫四郎自刃の所・島男也旧居碑》
1860年3月24日「桜田門外」で、大老井伊直弼を水戸浪士等が襲撃し暗殺する。朝廷の裁可なしに5ヶ国条約を結び、安政の大獄で反対派を弾圧した井伊直弼に対し、反対する過激な水戸藩士は脱藩し薩摩藩浪士と謀り、桜田門外で井伊直弼を襲撃し暗殺する。呼応して、大阪でも水戸・薩摩藩浪士による幕府打倒の挙兵計画があり、笠間藩士・島男也の家を密議のアジトとしていました。孝明天皇の勅書を得て、幕府を打倒する考えでしたが薩摩の意思統一がなされず、この計画が幕府側に漏れ、川崎孫四郎は切腹しようとしますが傷が浅く、幕史に捕らわれ翌日亡くなります。島男也、佐久良東雄は捕らえられ江戸送りとなり、江戸伝馬町の牢獄で獄死します。高橋多一郎、庄左衛門親子は 囲みを破りましたが、四天王寺境内で自刃しました。
【生國魂神社】
543-0071大阪市天王寺区生玉町13-9/06-6771-0002
神武東征に際し天皇みずから石山碕(現在の大阪城を含む一帯)に日本国土の御神霊、すなわち八十島神である生島大神・足島大神を祀られ、国土平安を祈請された事に始まる大阪最古にして日本総鎮守の神社。八十島祭に代表される宮中祭祀の神社として、延喜の御代には難波大社とも尊称された。明治4年には逸早く官幣大社に列せられ、また、毎年7月11日・12日には生玉・天満・住吉と続く、大阪三大夏祭りの魁「生國魂祭」が盛大に齋行される。
https://www.ueroku-wake.net/ikutamasan/ikutama_natsumaturi.php
1496年(明応5)蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとされ、当社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。1580年(天正8)石山合戦の戦火により焼失。1583年(天正11)豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定された。秀吉は300石の社領を寄進して社殿を造営し、1585年(天正13)に遷座された。このときに造営された社殿は「生国魂造」と呼ばれ、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである。1615年(元和元)には大坂夏の陣の兵火にかかったが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進された。明治維新期の神仏分離によって神宮寺の★法案寺(真言宗)を境外へ分離した。
・・・意外と簡単に燈籠を発見することができ、さらに、「宅間流算法」奉納額(絵馬)まで発見することができました、ラッキー。
・・・菅楯彦門下・生田花朝女さんの句碑もありました。
・・・さらに、大きな発見がありました。つづく