近松門左衛門(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【銀山寺】

543-0073大阪市天王寺区生玉寺町6-26 /06-6771-2702

http://www.mt-silver.org/

★源聖寺坂を上がってすぐ右手、天正19年(1591)豊臣秀吉の城下町建設の一環として寺町が建設される中、現在地に光明寺第24世住職・縁譽上人休岸によって創建された寺。当初は「大福寺」と称したが、秀吉が中国の金山寺に劣らぬとして寺号を「銀山寺」に改名。秀吉の守り本尊と伝えられる雨宝童子立像が安置されているほか、秀吉の画像、朱印状などが伝わる(大阪城にて保存)。また創建当時のものとされる木造阿弥陀如来立像は、右肩背面に貝殻が付着していることから★海中から引き上げられた仏像と考えられている(像高77.5cm、平安後期)。


ぎんざ1


境内には、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎門人★松本乾知と父寛吾をはじめ、俳人・医者・儒者であった★岡西惟中や、近松門左衛門「心中宵庚申」のモデル★お千代・半兵衛のほか、2006年に亡くなった昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い★吉田玉男の墓がある。


ぎんざ2


★吉田玉男の墓(1919~2006)

1919年1月7日生まれ。昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い。本名・上田末一。大阪府大阪市に生まれる。1933年(昭和8)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。戦中二度出征。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、その技は最高峰と謳われた。1977年(昭和52)重要無形文化財保持者(★人間国宝)認定、平成元年(1989年)勲四等旭日小綬章受章、平成9年(1997年)朝日賞受賞、2000年(平成12)文化功労者、2003年(平成15)京都賞(思想・芸術部門)受賞。2006年(平成18)9月24日、肺炎のため逝去。享年87歳。★国立文楽劇場が近く、★お千代半兵衛の比翼塚が当寺にあるため墓地を生前に購入し、竿石の字も本人★直筆である。


ぎんざ3


★お千代・半兵衛「比翼塚」(墓)

享保7年(1722)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進所で心中した。半兵衛は八百屋仁右衛門の養子。半兵衛の旅行中に、妻お千代が養母によって離縁され、帰ってきた半兵衛は養母の翻意に努力するが果たせない。養母がお千代を離縁したのは、高額の持参金付の嫁を迎えたいためであった。この真相が世間に知れて養母の立場が悪くなるのを恐れた半兵衛は、死を覚悟し、自分がお千代を離縁したと狂言する。そしてお千代を連れて密かに家を出、心中を遂げた。庚申の夜であった。この心中事件は、その直後に★紀海音「心中二ツ腹帯」★近松門左衛門「心中宵庚申」(以上浄瑠璃)、また「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色されたが、特に「新板宵庚申」は大当たりをとり、そのため世上に広く知られた心中事件となった。お千代は24歳で身ごもっていた。当寺の墓石・過去帳にはその子のことが「離身童子」と記されている。お千代の実家は屋号を川崎屋といい、道修町に住み、家業は鉄問屋(元禄の頃)で代々当寺の檀家。この墓は★比翼塚と言われている。


ぎんざ4


《岡西惟中と妻の墓》

岡西(岳西)氏は名を勝、通称平吉または松永氏を名乗る。一時軒、閑々翁、竹馬童子、飯袋子(ハンタイシ)、北水浪士等と号した。寛永16年(1639)因幡国鳥取に生まれる。延宝6年(1678)大阪に移り、正徳元年(1711)10月26日73歳で没し、当山境内墓地の土葬される。年少の頃から俳諧と書道を好み、俳諧は西山宗因に、書道は青蓮院尊証法親王に、和歌は関盛貞および烏丸光広に、連歌は里村昌程に、漢詩は南源大和尚に学び、若くして博学多識で知られる。氏は俳諧、和歌、連歌等に関しては多数の著書があって有名であるが、自らの本職であった医、儒に関しては詳細不明である。岡西氏は当時檀中の有力者であった河崎氏(鉄問屋川崎屋)の懇望により当寺の縁起「寶樹山銀山寺興隆来由記」を執筆完成されたこと、また本堂前の山額に「寶樹山」と揮毫されたこと、さらに氏の晩年である宝永2年(1705)5月20日から23日まで当寺において連歌会を興行されたことなど、当寺と密接な関係にあった。

《松本寛吾・乾知の墓》

寛吾の墓には、「石鉄松本先生墓」とある。石鉄は号で、寛吾は通称、名は通業という。伊予の出身で、京都の海上隨鴎(鴎は実際は區に鳥です。)(稲村三伯)門人。船場で開業し、蘭方医として名を知られていた。当寺の過去帳には天保6年の頃に「土葬3月16日松林院石鉄居士 45歳枩本寛吾」と記載されている。(枩は松の旧字)乾知は寛吾の子で通称保三郎、伊予で生まれ、年少で豊後日田広瀬淡窓に学んだが13歳の時上坂し、元大坂町奉行与力で陽明学者★大塩平八郎中斎の門人になった。16~17歳の頃すでに成人の如しとその秀才をうたわれたが、天保6年(1835)7月16日23歳で病死した。中斎は乾知の早逝を深く惜しんだ。中斎の撰文で、門人松浦誠之の筆になる碑文は、惜しくも剥落著しいが、中斎の撰文で★現存しているのはこの墓碑銘だけといわれている。

《金子徳崇の墓》

本姓は岡、名は通称清蔵、希山と号した。相模の国小田原、大久保侯の世臣金子徳辰の子である。元文元年(1736)命によって職に就き、父に従って大坂藩邸に来た。性敬慎率直、常に経史を読み、儒学を深めたが、寛保2年(1742)5月28日病没し、世人に惜しまれた。

《六無管名先生の墓》

戒名は観山六無居士。官名は熊五良である。文政5年9月22日没。

《京巌熊見先生の墓》

戒名は見樹院得法京巌居士。俗名熊見三竹。天保10年4月14日没。妻の戒名は春花妙瑞信女で天保11年3月16日没。台石に嶋屋重兵衛とあるが、関係は不明。


ぎんざ5


《参考》2007.8.29京都新聞「ふるさと昔語り」より

http://www.town.seika.kyoto.jp/contents_detail.php?frmId=4950

京都府精華町植田★「来迎寺」。ある夫婦とその子の墓が立つ。夫婦とは近松門左衛門の人形浄瑠璃「心中宵庚申」の主人公、お千代と半兵衛のモデルになった男女だ。作品は義理と愛情の板挟みになった半兵衛・千代夫婦が心中へと向かう姿を描く。近松七十歳の作品で、最晩年の世話物。モデルの心中事件は1721(享保6)年、大阪で起こった。大阪新靱油掛町の八百屋半兵衛。武士の出だが、八百屋の養子になった。兵衛の嫁が上田村(現精華町植田)の豪農島田平右衛門の二女千代。二人は仲むつまじく暮らし、千代は妊娠4カ月。しかし、幸せな生活は続かなかった。しゅうとめは千代と折り合いが悪く、半兵衛の留守中、勝手に千代を実家に帰す。平右衛門は「半兵衛が自分の留守中に親に追い出させた。親に自分の罪を塗りつける不孝者」と責める。半兵衛は腹を切ってわびようとするが、恩のある義母の非を世間にさらすことになる。半兵衛は弁解せず、ただ千代を連れ帰る。半兵衛は千代をかくまう。それを知ったしゅうとめは怒る。「世話してやった親が嫌う女房に孝行を尽くし、親に不孝を尽くす恩知らず」とののしる。嫁を憎んで追い出したとあっては義母の悪名は甚だしい。「千代を呼び戻してください。自分が離縁しますから」と頼む半兵衛。「その約束破ったら死ぬからね。母を殺すか、女房を離縁するか、あんたの勝手次第」としゅうとめ。義母への恩と平右衛門への義理、そして千代への愛情。どれも捨てられない。三筋四筋の涙の糸がほおを伝う。半兵衛は千代と死ぬ決心をする。「あなたの孝行の道が立てば心残りはない」と従う千代。庚申の夜、生国魂神社(大阪市天王寺区)の境内で半兵衛は来世での再会を誓い、身重の千代を刺し、切腹する。平右衛門は娘夫婦の死を悼み、島田家の菩提寺、来迎寺に墓石を建てた。寺には享保年間の墓石と安政年間の二代目の墓石が並ぶ。墓石には半兵衛と千代、そして千代の腹にいた子の戒名が刻まれている。「普段は訪れる人も少なく静かです」と同寺の伊藤順芳住職(64)は話す。悲しい心中を遂げた二人とその子が静かに眠る。享保年間に建てられた墓石は角が取れ、小さく丸くなっている。伊藤住職によると、せんじて飲めば女性の更年期障害に効果があるなどとされ、寺を訪れた人々が削って持ち帰ったためだという。


・・・またまたお墓が2箇所にあります、どちらも大切にしていきたいものです。