1651年(慶安4)摂津国天王寺村(現在の天王寺区茶臼山町★堀越神社附近)の農家に生まれる。当初、当時人気の浄瑠璃語り井上播磨掾の弟子である清水理太夫に入門し、播磨掾の芸風を学ぶ。のちに京都に出て、浄瑠璃語りの宇治加賀掾のもとで浄瑠璃を語り好評を得、清水五郎兵衛と名乗った。その後加賀掾と別れ、操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、1680年(延宝8)のころ竹本義太夫と改名。いっぽう1683年(天和3)には、近松門左衛門が加賀掾のために『世継曽我』を書いたが、翌年の貞享元年、義太夫は大坂道頓堀に竹本座を開場して座本(興行責任者)となり、その旗揚げとしてこの『世継曽我』を語り評判をとる。近松が竹本義太夫とかかわりを持つようになったのは、これが最初であった。さらに貞享2年、竹本座は近松作の『出世景清』を上演し義太夫がこれを語ったが、以後義太夫と近松が提携して上演した作は「新浄瑠璃」と呼ばれるようになり、この作より以前の、播磨掾や加賀掾らが語ったものを「古浄瑠璃」と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃の世界に与えた。1701年(元禄14)に筑後掾を受領し、竹本筑後掾と称す。同16年には近松作の『曽根崎心中』が好評により竹本座の経営が安定したので、座本を引退し初代・竹田出雲にその座を譲ったが、その後も竹本座には出演している。1714年(正徳4)に死去、享年64。墓所は大阪市天王寺区★超願寺。なお弟子の発起によって生國魂神社境内★浄瑠璃神社にも祀られている。
【竹本座】
1684年(貞享1)竹本義太夫(筑後掾)が大坂道頓堀に創立。1703年(元禄16)近松門左衛門作『曾根崎心中』の成功で座の基礎を固め、1705年(宝永2)から1世竹田出雲が座本となり経営面を引受け、筑後掾は座頭(ざがしら)として活躍。
《参考》道頓堀五座
戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。そして若衆茶屋といわれる陰間(少年)たちが男色を売る茶屋も集まっていた。昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。
《参考》オクダ工芸
(本社)京都府宇治市莵道只川17
(営業所)京都市上京区阿弥陀寺前町31(寺町今出川上ル)/075-741-6993
http://www.okudakogei.co.jp/signboard/board.html
ステンレス製の案内表示板です。人形浄瑠璃文学でも知られる、初代 竹本義太夫300回忌に伴う、墓石(★超願寺)・供養塔(★四天王寺)の修復工事の際、案内板を設置させて頂きました。
【超願寺】
543-0052大阪市天王寺区大道1-14-1/06-6771-6654
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009758.html
義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、慶安4年(1651)この付近(堀越神社南約100mの路上に、生誕地碑)に生まれた。若いころから研究熱心で小唄・俗謡から物売りの呼声まで身につけ、将来に備えた。その後京・大坂で修業、延宝(えんぽう)5年(1677)独立、作者に近松門左衛門を迎え、その他三味線・人形の名手、経済面での協力者を得て「曽根崎心中」で空前の大当りをとった。正徳4年(1714)没、64歳。
《文楽》
人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。★竹本義太夫の義太夫節と★近松門左衛門の作品により、人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、「竹本座」が創設されました。この後「豊竹座」をはじめいくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返し、幕末、淡路の★植村文楽軒が大阪ではじめた一座が最も有力で中心的な存在となり、やがて「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり今日に至っています。
・・・日本を代表する伝統芸能なんですが、あまり知らない(知られていない)のは情けないことです。