ニッセイ(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・高橋正幸(元大学教授?)さんのHPに、会津八一さんのことが詳しく書かれており、歌碑の建立に★奥田勝さんが深く関わっておられたことがわかりました。

http://members2.jcom.home.ne.jp/mta5-8hg3yd7/profile.html

東京法融寺内歌碑》

177-0052東京都練馬区関町東1-4-16/03-3920-0785

http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/nerimanochimei/nansei/sekimachihigashi.html

會津八一の歌碑は全国に19基あるが、奈良に11、新潟に6、東京と長野に各1基である。やはり古都奈良、『鹿鳴集』の會津八一、郷里新潟の會津八一なのだろう。したがって會津八一に関心を寄せる人にとっては東京法融寺にある歌碑はまことに貴重なものといえよう。歌碑は高さ約m、幅約1.5mの量感のある大きな石で、これは彫刻家奥田勝と石工喜多桝太郎が奈良で探しあてた生駒石だという。全体が黒っぽくてざらざらとしており、碑の面だけが磨いてある。すすきが本描かれた右に歌が行に分けて書かれているが文字は少し読みにくい。會津八一の歌碑の中で歌と絵が彫られているのはこの歌碑と新潟県太總寺(中条町)の歌碑だけである。會津八一は書家であっただけに歌碑の文字の彫りに厳しかった。それに「私などの歌でも、石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも伝はる。」(「私の歌碑」)といった思いもあった。だから碑に彫る歌はそのために揮毫して石に張って彫らせたという。


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會津八一の生前に建てられた歌碑は基あるが番目に古くいまは奈良の万葉植物園に建っている最初の歌集『南京新唱』の巻頭歌「かすがのにおしてるつきのほがらかに あきのゆふべとなりにけるかも」の碑は私費で造ったもので、さきの奥田・喜多両名の尽力により完成した。以後東大寺・法輪寺の歌碑もこのコンビに任された。法融寺の歌碑は會津八一没後のものだが信頼厚かったこの両名が力を尽した碑といえる。


《奈良・万葉植物園内歌碑》

630-8212 奈良県奈良市春日野町160 春日大社0742-22-7788

http://www.kasugataisha.or.jp/h_s_tearoom/manyou-s/index.html


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奈良県立図書情報館

630-8135奈良市大安寺西1丁目1000番地0742-34-2111

http://www.library.pref.nara.jp/

ITサポーターズ会津八一の歌碑を訪ねる

http://www.library.pref.nara.jp/supporter/2011kikaku/index.html

奈良をこよなく愛した会津八一。201010月、喜光寺に、また、11月には、中宮寺に、会津八一の歌碑がそれぞれ建立されました。奈良県下には、2011年1月現在、会津八一の歌碑が16ヶ所17基あります。

NEWS2012.9.9日本経済新聞より

会津八一の歌碑奈良・斑鳩町で除幕式

歌人で書家・美術史家の会津八一が残した和歌「うまやとの みこのまつりも ちかつきぬ まつみとりなる いかるかのさと」の歌碑が奈良県斑鳩町に9日完成し、同町法隆寺iセンターで除幕式があった。1921年の聖徳太子1300年遠忌にあたり、期待高まる地元の情景を詠んだもの。本人の自筆書を4倍に拡大して香川県産の高級石材、庵治石に刻んだ。飛鳥建設(奈良市)の左野勝司社長が寄付。早稲田大学會津八一記念博物館によると、八一の歌碑はこれで全国で48基目という。

NEWS2014.11.8奈良新聞より

あめつちに、の会津八一の歌碑が原家から法隆寺夢殿に移設されました

2014年11月7日、法隆寺近くの原さんの庭に昭和54年に建てられた会津八一の歌碑が法隆寺の夢殿近くに移設され、この日除幕式が行なわれました。寄贈された原玉泉さんの家族の方に感謝状と記念品が贈られました。

・・・これで奈良県内20基になったそうです。さて、「会津八一」さんが主役になってしまいましたが、「奥田勝」さんが薫陶を受けた偉大な歌人だったということです。さて、奥田さんの作品を追いかけましょう。


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【1937「旧宇治電ビル」】設計:長谷部竹腰設計事務所

530-0047大阪市北区西天満4丁目8-1706-6446-8821関電不動産

http://www2.kanden-fudosan.co.jp/bussiness/building/detail.php?id=4

旧宇治電ビルディングは、第二次世界大戦前に電力事業を営んでいた宇治川電気は1925年(大正14)大阪・中之島に大阪商船・日本電力との協業による大阪ビルディングを建設し、同年月21日より本社を置いていたが、業務拡大により手狭となったため自社による社屋建設が企図され、その用地として大阪市北区梅ヶ枝町164番(現・同区西天満四丁目8番17号)の地を定めた。この社屋は1935年(昭和10)月に着工、1937年(昭和12)月30日竣工ののち、同年月26日には宇治川電気が全館を賃貸し同社の本社が移転入居した。現代のオフィスビルに通じる洗練されたデザインで、正面には電力会社のビルらしく電球とモーターを持った神像のテラコッタ(建築装飾用のやきもの)レリーフがありました。レリーフは、設計者長谷部鋭吉のデッサンをもとに、彫刻家奥田勝が原型をつくり、京都の泰山製陶所で製作されたものだそうです2009年に閉鎖。建物は解体され、跡地には13階建てオフィスビルが建設された。


●《大阪歴史博物館特集展示「近代建築の記憶」/8階特集展示室(常設展示場内)

平成25年12月18日(水)~平成26年2月3日(月)

★「宇治電ビルディング神像テラコッタ頭部昭和12年(1937)

宇治電ビルディングは1937年(昭和12)現在の北区西天満に長谷部竹腰建築事務所の設計で建てられました。現代のオフィスビルに通じる洗練されたデザインで、正面には電力会社のビルらしく電球とモーターを持った神像のテラコッタ(建築装飾用のやきもの)レリーフがありました。本品は神像のうち頭部にあたる部分です。

縦41.7×横38.3×高33.0センチメートル本館蔵(関電不動産株式会社寄贈)


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《宇治電ビルディング》設計:日本設計施工:清水建設

http://www2.kanden-fudosan.co.jp/bussiness/building/project/ujiden_bldg/index.html

竣工2014年平成2610月敷地面積:2,764m2(約836坪)延床面積:20,105m2(約6,082坪)最高高さ:59.58m階数:地上13階、地下1階、塔屋2階構造:鉄骨造(一部鉄筋コンクリート造)

《参考》2003.8.26

関西電力株式会社および株式会社宇治電ビルデイング(以下「宇治電ビル」という)は、平成15年8月26日開催の各々の取締役会における決議をへて、平成15年11月5日を期して、株式交換により当社が宇治電ビルを完全子会社とする旨の株式交換契約書を締結いたしました


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・・・神像レリーフ頭部が「歴博」に寄贈されましたので、新しい「宇治電ビル」にはもうレリーフは無いと思いましたが、とにかく現地へ行ってみることにしました。素敵な美しいビルで、親切に旧ビル模型や建築部材の展示もされていました。そして、裏口から出ようとした時です。