・・・「オダサク」に続いて、「直木賞」は有名なのに当の本人をあまり知らないということで、「ナオキ」を採り上げたいと思います。
【直木三十五】(1891~1934)
1891年(明治24)2月12日、★大阪市南区内安堂寺町通2丁目(現・谷町6丁目交差点付近)で誕生しました。生家は市電開通時、道路の拡幅工事でなくなっています。明治29年、南区内安堂寺町通2丁目37に転居(現・安堂寺町2-3)。近所に貸本屋と講釈場があり、講談に親しみました。これが直木文学の原点です。本名は植村宗一、東洋史学者の植村清二は実弟。父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。
「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳のときに直木三十一の筆名で『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。それ以降は改名することはなかった。理由は「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だったからだという。また菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告されたからだとも言われている。
《参考》マキノ省三
http://cat-ch.tv/nagoya-now/2011/0516/
《桃園公園》大阪市中央区谷町6-5
当地にはかつて桃園小学校があり、作家・直木三十五(本名:植村宗一)が通っていました。
《1924「大阪市立桃園小学校」》設計★石本喜久治
「分離派建築会の作品」第3刊(1924)には石本喜久治によるドローイング「ある小学校」の平面図と立面図が掲載されている。「桃園第一尋常小学校」(竣工時名称)として実際に建てられており、取り壊し前(平成5年)に調査を行なったとのことである。戦後は「大阪市立桃園小学校」と改称されたその小学校の校舎は、写真のように長らく使い続けられた。しかし、都市部の児童数減少の問題から中央小学校へ統合されることとなり1991(平成3)年に閉校し、校舎の跡地は現在では公園となっている。遡れば明治6年に大阪南大組第三小学校として開校して以来、木造校舎にて授業が行なわれてきたが、1924(年大正13)初めて鉄筋コンクリート造の校舎が敷地の西側に建てられた。石本喜久治が設計を引き受けた経緯は不明であるが、個人の立場で請けた仕事であったことは間違いないようであり、校舎落成時の記念ブロンズ額にも石本個人の名が記されている。
◆【直木三十五記念館】◆
542-0012大阪市中央区谷町6-5-26★「萌」内/06-6767-1906★「練」内
http://naoki.roku-hara.com/index.html
(複合文化施設「萌」)
http://www.ho-karahori.com/index.html
(お屋敷再生複合ショップ「練」)
《六波羅真建築研究室》 http://roku-hara.com/
542-083大阪市中央区東心斎橋1-8-31Shinsaibashi Circus 1F/06-7507-1463
1920年(大正9)、里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。その際には「植村宋一」の名を使った。1923年(大正12)の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになる。1925年(大正14)マキノ・プロダクション主催の★マキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。映画製作にのめりこむ。1927年(昭和2)、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『忠魂義烈・實録忠臣蔵』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる。
1929年(昭和4)『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』である。これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。1934年(昭和9)2月24日、43歳で結核性脳膜炎により永眠。翌年(1935)、友人★菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続く。
・・・次は、文学碑を見に行きましょう。