・・・結局、自力で探し出すことができなくて、直接「会社」に問い合せて「作者」を教えていただいたものがあります。丁寧に回答してくださった「会社」に敬意と感謝をこめて、紹介したいと思います。
【1938「日本生命保険本店本館」】設計★長谷部・竹腰建築事務所
541-8501大阪市中央区今橋3-5-12/06-6209-4500
1889年(明治22)7月に滋賀県彦根で第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)の頭取をしていた弘世助三郎が関西の財界人に呼びかけて、社長に11代目★鴻池善右衛門を据え、片岡直温らを取締役にして資本金30万円の有限責任日本生命保険会社として大阪に発足させた。保険料表を当時主流だったイギリスの保険会社のものを使わずに、日本人の死亡統計から作成したものを採用した。1891年(明治24)に株式会社(社名は日本生命保険株式会社)に改め、相互扶助の精神のもと1898年(明治31)の第1回大決算において、日本で最初に契約者への利益配当を実施した。第二次世界大戦中に戦時統合として、富士生命保険・愛国生命保険と合併した。
・・・ずっと気になっていたんです、この彫刻の作者がわからなくて。
★《長谷部・竹腰建築事務所》
1933年(昭和8)5月、住友合資会社が工作部を廃止した直後に、工作部長であった長谷部鋭吉と、同部建築課長であった竹腰健造が、工作部員27名とともに退職して創立した。現在の★日建設計の源流である。
★【日建設計】
102-8117(本店)東京都千代田区飯田橋2-18-3/03-5226-3030
541-8528大阪市中央区高麗橋4-6-2/06-6203-2361
http://www.nikken.co.jp/ja/index.html
★「日建設計115年の生命誌」
http://www.nikken.co.jp/ja/archives/history/index.html
2015年、日建設計は創業115年を迎えました。明治・大正・昭和・平成の時代の流れの中で、それぞれの時代の社会や人々と共に歩んできました。その過程は、世代を越えて、各時代の人々が必要とした価値を、「信頼と技術」により作り出そうとしてきた歴史でした。現代へ繋がるその足跡を、これから12回に分けて連載配信することで紹介いたします。社会や企業は変化する状況の中で生き続ける「生命系」に喩えることができますが、変わり続ける社会と共に生きてきたこの生命系を「日建設計115年の生命誌」として紹介するものです。
http://www.nikken.co.jp/ja/archives/history/04_03.html
長谷部・竹腰建築事務所の時代に日本生命保険本店本館の設計が始まりましたが、本館北側半分が完成した昭和14年(1939)は、深刻な日中戦争に突入していた時代でした。時節柄、まず建物の北半分だけを作り、石貼りの外壁は、全体が完成できる時に一緒に仕上げることとされ、コンクリートの上にモルタルが塗られただけの外装となっていました。さらに、第二次世界大戦に入ると建物の外壁は黒く塗装され、終戦直後は進駐軍に接収されるという事態も経験しています。ようやく花崗石の外装が北側の第1期部に施工されたのは、第1期竣工後15年を経た1954年のことでした。ちなみに、この時期の南半分の敷地には、明治35年(1902)竣工の辰野金吾・片岡安監修、関野貞設計による赤レンガに花崗岩の帯をもつ外観の旧本館が建っていました。この様式は、東京駅等を設計した明治の巨匠・辰野金吾が多く採用したため、「辰野様式」と呼ばれています。旧本館を撤去して、現在の花崗石貼りの本館全体が完成したのは、昭和37年(1962)のことでした。長谷部・竹腰建築事務所による設計を継承した日建設計工務の後継者達の設計監理により、南側の第2期工事が遂行され完成に至っています。戦争の混乱の中、昭和前半の激動の時代を生き続けた建築だったのです。
・・・以上のように「日本生命保険本店本館」について詳細な説明がHPに掲載されています。しかし、残念ながら「玄関」の彫刻についての記述はありませんでした。当然、「日建」さんなら把握されているだろうと、思い切って問い合わせてみました。なんと数日後には、丁寧な回答をいただくことができましたので、その内容を紹介させていただきます。
★★★
日本建築協会・会報誌「建築と社会」2013年1月号「再読・関西近代建築」のコーナーに日本生命保険相互会社本店本館についての解説記事がありました。筆者は、安達英俊建築研究所の安達英俊様です。その記事中に彫刻についての記述があります。
西側の御堂筋から本館の中央部よりアプローチする。両サイドのニッチには奥田勝作の「母子像」と「男性像」がおかれる。作者の言によると、「子供をあやす母子像によって生命の未来を意味する。」「その子の久遠の生命を見守る男子像」として、「生命の泉」と命名されている。
奥田勝氏についてネットで調べましたところ、明治41年奈良県生まれ東京美術学校卒の彫刻家とありました。
なお、「生命誌」の記事中で、日生本館の立面図で黄金比の説明をしておりますが、このコンパスの針は、この彫刻の位置に置いております。
★★★
・・・自分なりに「奥田勝」さんについて調べました。
【奥田勝】(1908~1968)
彫刻家・洋画家。1908年(明治41)奈良県生。東美校卒。天理時報社嘱託。日本彫刻家協会会員。
・・・さらに、「会津八一」さんとの関係が出てきました。
◆会津八一は著名な人物とも書簡のやり取りをしていますが、早稲田大学で同僚の窪田空穂、吉江孤雁、日夏耿之介など、身近に関わった人々との交流は、八一の人物像に新たな光を当てることになるでしょう。とくに、彫刻家・奥田勝に送った全長15m84㎝の折帖の説教文「與奥田勝書」は、青年芸術家への叱咤激励であり、八一の芸術への態度をしめす重要な作品になります。空疎な芸術論や骨董趣味を強く戒め、作品制作の全人的精進を求める。作品こそが「真実」を語る唯一のものである。
◆昭15・7・28/会津八一葉書「奥田勝」宛
ペン書2行〈発信〉淀橋区下落合3丁目1321番地〈受信〉奈良県丹波市三島
◆「懐徳堂旧跡の碑」/日本生命ビル南側壁面
この地は徳川時代の学校ととして名高い懐徳堂の後である。享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで140年の間、大坂文教の中心であった。大正の初年に先儒の偉業を顕彰して、記念会が設立されたので、当社も協賛して、この碑を建てた。撰文は記念会の創設者西村天囚先生、揮毫は懐徳堂二代目の学主たる中井愁庵先生の玄孫たる中井天生先生である。昭和37年5月 日本生命相互会社
《日本生命保険本店新東館》
御堂筋沿いの本店本館の裏手にあった旧館を建て替えて2015年に完成した。淀屋橋の“日本生命村”のビルの中で最大の規模で、ニッセイ新大阪ビルや淀屋橋フレックスタワーなど大阪市内に分散していた同社の事務やコールセンターなどの顧客対応部門を集約。 3000人以上が勤務する。ビル外装には花崗岩を使用し、関連ビルと調和させた。本館とは従来と同じく上空連絡通路で繋がれた。また、建設にあわせて歩道整備や石畳の美装化も実施され、新たなモニュメントも設置されています。
・・・「ニッセイ」さんと「ニッケン」さんに感謝です。