織田作之助(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・オダサクを求めて、富田林までやってきました。

《富田林市寺内町》

http://www.city.tondabayashi.osaka.jp/contents5/category04/index.html

16世紀中頃、京都興正寺門跡の証秀上人が町衆と協力してつくった自治都市。江戸時代に入って農産物の集積や活発な商業活動によって発達し、寛文の頃には酒や木綿など51職種149の店舗が軒を連ねたという。東西約400m・南北約350mの区画内には昔ながらの町家が並び、タイムスリップしたような静けさが漂う。寺内町で最も古い民家で、造り酒屋として栄えた重要文化財旧杉山家住宅が公開されており、狩野派の襖絵や数寄屋造りの奥座敷など、見応えがある。


はやし1


観光交流施設きらめきファクトリー

584-0093富田林市本町19番8号0721-24-5500

http://tonkira.jp/

・・・寺内町の入口に素敵な施設がオープンしています。


はやし2


【富田林市「本町公園」】(土曜夫人「文学碑」

584-0093富田林市本町8-15

https://www.city.tondabayashi.osaka.jp/public/section/bunkazai/pr.html#2

大正年大阪市内に生まれた作之助は、昭和22年、東京にて34歳の若さで亡くなりますが、そのケ月前まで、富田林寿町の実姉、竹中タツさんのお宅(市立第一中学校の北側)に身を寄せ、当家の一室で、絶筆となる『土曜夫人』を執筆していました。「ひょろっと背の高い、髪のボサボサの先生が、夜中に終電車で帰ってきては、家に入らんと家の横の溝で長い小便をよくしてましたな。やはり、居候の身やから気兼ねしてはったんでしゃろな。」「よく、青白い顔をした先生が、寺内町を散歩しているのを見ましたなぁ。」そんななにげない話から、織田作之助の人柄が忍ばれます。残念なことに、現在は、タツさんもお亡くなりになり、お宅も取り壊されて、当時の面影はありませんが、感慨深いことです。市では、このほど寺内町入り口近くの本町公園に、旧杉山家住宅(重要文化財)が生家の明星派の歌人”石上露子(杉山タカ)”の記念碑と並んで”織田作之助”の記念碑を設置しました。記念碑は、織田作之助の顔写真や自筆の原稿などをモチーフにしています。寺内町が緑のこの2人。面識があったが、どうかわかりませんが、”文化の里・富田林”をかいま見る思いです。


・・・「旧杉山家」にオダサクの遺品が展示されていますので、観に行きましょう。

旧杉山家住宅

富田林市富田林町14-310721-23-6117

https://www.city.tondabayashi.osaka.jp/contents5/category01/sugiyama.html

富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派歌人・石上露子の生家でもあります。寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。


はやし3


《参考「河内幻視行」》産経WESTより

織田作の富田林時代は、翌昭和2111月まで続くが、この間、宝塚の女性と結婚したり、京都で放浪生活を送ったりしたから、延べにしたら6、7カ月間ほどである。短い間だったが、文学的にはもっと充実した時期であった。いまも文庫本で読める『六白金星』や『世相』を書き、21年8月からは、この家にこもって読売新聞に『土曜夫人』の連載をはじめた。挿絵は小磯良平であった。まだ田野が多くのこっていた界隈を散歩したこともあったはずである。長髪のうえ、身長5尺8寸というから、約177センチと、当時としては長身、痩躯の大男だから、住民たちも「ナニモノなんや」と喫驚したはずである。

《青空文庫》「土曜夫人」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/337_19631.html

《参考》思文閣オンラインストア

http://item.rakuten.co.jp/shibunkaku/c/0000000126/

長篇小説『土曜夫人』は、「読売新聞」朝刊二面に昭和21年(1946)8月30日から12月6日まで96回にわたって連載されました。冒頭は高瀬川の流れを情緒的に描いた文章から始まりますが、これは実際に京都・秋田屋旅館で執筆されるなど、京都にゆかりのある作品といえます。また、読売新聞連載当初から、全話に小磯良平による挿絵が添えられました。連載中の作者急死により未完であることが惜しまれますが、文壇と画壇でそれぞれに活躍した人によって生み出された秀作といえるでしょう


《参考》「文学者を偲ぶ住まい」文:高橋俊郎

2011.8.12大阪日日新聞より)


紛れもなく大阪の作家である織田作之助は天王寺区生玉前町の長屋に生まれたが、もちろんその生家は残っていない。しかし、生涯にそこだけ「織田」の表札を出し、そこで『夫婦善哉(めおとぜんざい)』も執筆した新婚当時の長屋が堺市東区丈六に残っており、東京に出て亡くなる直前まで身を寄せた富田林市寿町の実姉宅に残された遺品が、近くの旧杉山家住宅に展示されている。生誕百年を2年後にひかえて、織田作之助という資源を大阪としてどう生かすのか、私たちの課題に他ならない。


・・・「北野田」にも行ってみましょう。


はやし4


《お惣菜の店「東地商店」(旧力餅食堂)》

599-8122堺市東区丈六174旧大阪府南河内郡野田村丈六)/072-237-2019

https://www.lib-sakai.jp/booklist/bookfair/201408kita01.htm

昭和14年7月に織田作之助は宮田一枝と正式に結婚、北野田駅近くの旧野田村丈六で新家庭を持ちましたが、このスウィートホームでの暮しは、彼女の死によって終わりました。「一枝あわれ、一枝あわれ・・・」と、作之助は日記にしたためて大声で泣き叫びました

以前「力餅食堂」のあった家も「東地商店」の店舗となりましたが、6軒長屋当時の雰囲気はかろうじて残っています。


・・・せっかく北野田まで来ましたので「東文化会館」に立ち寄ることにしました。


はやし5


第17回堺市所蔵美術作品展/於:堺市立東文化会館ギャラリー

599-8123堺市東区北野田1084-136072-230-0134

http://www.sakai-bunshin.com/event_shousai_tenji.jsp?id=2472136&kaijo7=1

没後25年記念髙岡徳太郎-ふるさと堺へのノスタルジー-

2016年2月19(金)~3月14(月)

堺市では、市民をはじめ多くの方々に文化芸術に親しみ、美術に関する知識や理解を深めていただくため、毎年「堺市所蔵美術作品展」を開催しています。17回目を迎える今回は、堺に生まれ、第二次世界大戦後、日本を代表する美術家団体のひとつである二科会の再建に大きな役割を果たした堺ゆかりの洋画家・髙岡徳太郎(1902~1991)の回顧展を開催します。髙岡氏は、高島屋包装紙の薔薇の図案やマスコットのローズちゃんの原型を手がけたことでも知られています。今回の展覧会では、薔薇や一年間滞在していたパリの風景、長年愛した水辺の風景などの作品をテーマごとに紹介します。


・・・なかなか見ごたえのある展覧会でした。