・・・アベノを満喫しながら、ようやく「キリタン」に到着しました。
《大阪キリスト教学院・短期大学》
545-0042大阪市阿倍野区丸山通1-3-61/06-6652-2091
1903年(明治36)河邊貞吉師、大阪新世界★「内国勧業博覧会」集会所で伝道開始。大阪市南区★玉水橋南詰に大阪集会所開設。1904年(明治37)大阪集会所は大阪市南区下寺町に移転し、下寺町伝道館となる(後の大阪伝道学館)。
・・・警備員さんに訪問理由を説明すると、丁寧に案内してくださいました。
【「織田作之助来遊の地」碑】
http://www.occ.ac.jp/news/index.php/7391.html
大阪キリスト教短期大学★北門内には、「織田作之助来遊の地」碑があります。これは、作家の織田作之助(1913~1947)が、かつてあった「松虫花壇」という料亭に、後の夫人となった宮田一枝と訪れたことを記念して建てられたものです。先日、近鉄ニュース第806号(2014年3月1日号)において、作家の難波利三氏による「歴史街道・人間往来」第134回の中でこの碑のことが取り上げられました。残念ながらリンクはできませんが、近鉄主要駅のフリーペーパーとして配布されています。どうぞご覧下さい。また、記念碑の見学を希望される方は、来校時に警備員にお申し出ください。学校都合により見学できない日、時間もありますので、ご了承ください。(原則として平日9時~17時、団体は不可)
・・・いろいろ調べましたが、残念ながら「松虫花壇]の詳細がわかりません。またもや「探偵アートスクープ」物件です。検索結果では、それぞれ微妙に表現の違いがあっておもしろいですね。
●文人織田作之助が旧制第三高校時代に宮田一枝を伴って来訪されたそうで、大阪基督教短期大学構内に記念碑が建っています。
●大阪基督教短期大学の敷地にはかつて料亭「松虫花壇」があって、織田作之助も後に妻となる女性と一泊しました。松虫界隈には、「天下茶屋」などの地名が残るように、お茶屋が多かったようです。
●大阪を代表する小説家織田作之助は、1934年(昭和9)に恋人宮田一枝と料亭「松虫花壇」を訪れましたが、この料亭は現在のキリスト教短期大学の敷地内にありました。同大学の北門入口辺りに、織田作之助来遊の地の碑があります。織田作之助と一枝は1939年(昭和14)に阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式を挙げました。
●戦前、現在の大阪キリスト教短期大学の敷地の南部あたりに「松虫花壇」という料理店があり、そこは広い前庭のある格調高い料亭として大阪市南部ではかなり有名でした。1934年(昭和9)当時三高(今の京大)3年生の時に、恋人の宮田一枝と一緒に訪れた地です。織田作之助と一枝は後に、阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式をあげています。
●1934年(昭和9)11月に今の大阪キリスト教短大の敷地に有った「松虫花壇」と言う名の料亭兼高級旅館に当時、三高の3年生だった織田作之助と京都新京極のカフェで女給をしていて知り合い店の2階に梯子をかけて助け出した後の妻となる宮田一枝と共に来遊し一泊を共にした。その後、一枝と作之助は、阿倍野筋2丁目にあった料亭「ちとせ」で結婚式を挙げた。
●現在の大阪キリスト教短期大学の敷地の南部あたりに「松虫花壇」という料理店があった。今の学校の正面入口より少し南に入口があり、広い前庭のある格調高い料亭だった。
・・・せめて「キリタン」関連で調べたことを掲載しておきます。
《参考》「大阪日本橋キリスト教会」登録年月日:20000428
542-0073大阪市中央区日本橋1-20-4/06-6641-1329
http://www.geocities.co.jp/church_onb/index.html
《参考》「高津入堀川」玉水橋
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/page/0000023713.html
高津入堀川は、明治時代に開削した唯一の堀川です。この開削工事が、やはり下水道の排水と衛生上の問題から立案されたこと、ならびに中央部下水道改良事業の付帯工事として着工された点で注目すべき事項でした。道頓堀川の下大和橋下流側から南へ分岐し、西高津新地内で一度クランク状に折れ曲がり、国道25号の手前で西へ、南海本線を潜ってすぐ北へ向きを変え、浪速区役所の南東で難波入堀川・鼬川に合流していた。長さは約1.8km。1968年(昭和43)埋立。現在はクランクより上流側の区間を除いて阪神高速1号環状線の敷地に利用されている。また、北流箇所東岸の道路はパークス通の愛称が付けられている。
・・・「松虫花壇」は探索中ですが、別館として営業していた「南天苑」については詳しく紹介されていますので紹介しておきます。
【天見温泉「南天苑」】
586-0062河内長野市天見158/0721-68-8081
河内長野市にある天見温泉「南天苑」が★辰野金吾の建築だと判明したのは平成14年のこと。元々、大正2年に堺に★「汐湯」という温泉施設として建てられもの。1934年(昭和9)9月21日の室戸台風で倒壊した堺市の『大浜汐湯』別館(家族湯)を、阪堺電気軌道(当時★南海電鉄)から譲り受けて、翌年の昭和10年に南海電鉄が観光拠点とするため、堺から河内長野市の天見へ移築。大阪市阿倍野の料亭★「松虫花壇」の別館として開業し、料理旅館として使用していた。第二次世界大戦を経て、1949年(昭和24)に温泉旅館「南天苑」として開業した。
【大浜公園】
590-0974堺市堺区大浜北町4・5丁/072-232-1489
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/shokai/ohama/
大浜公園は明治12年(1879年)に開園し、堺市営で最も古い公園です。(※府営浜寺公園:明治6年(1873年)開園)。明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました。その他にも公会堂、★潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などもあり、当時は、関西有数のレジャー地として賑わいました。 しかし、当時の白砂青松の美しい海岸線も臨海工場地帯の埋め立て造成に伴い、その面影をなくしました。現在は、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼育舎、蘇鉄山などがあり、スポーツ・レクリエーションの場として利用されています。