・・・ここまで来たのですから、やっぱり五代さんのお墓にお参り。そして、前回工事中だった「無縁堂」も確認しておきたいと思います。
【南霊園】
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-115/06-6661-5924
http://www.kankyoujigyou.or.jp/business/cemetery/minami/
当園は明治7年大阪府が開設し、八弘社(明治8年7月~明治40年2月)を経て明治40年2月大阪市が(買収)引継ぎ、現在に至ります。この間、阪神高速道路建設のため一部移転しましたが、現在61,319㎡の敷地に約13,700基の墓石が建立され、多くの方のお参りがあります。また、大阪市の南の玄関口天王寺・阿倍野のターミナルから徒歩で約15分の交通至便の場所に立地し、著名人の墓石も多く墓参者も一年を通して途切れることも無く、都心の中の安らぎの空間を形成しております。
★無縁堂
市内5ヶ所の市立斎場で火葬され、遺族の引取りがなかった遺骨をお祀りしています。毎年秋のお彼岸には慰霊祭を行っています。
・・・とても美しく整備されていました。
《参考》「アベノ」
かつて「摂津國住吉郡」として広大な地域を管轄していた「住吉区」。1943年(昭和18)4月1日の区編制により分区して、「東住吉区」と「阿倍野区」が誕生しました。旧住吉区役所が「阿倍野」の地にあり、「阿倍野区」が「住吉区」と名乗る予定でしたが「住吉大社」周辺の住民らから反対で断念。以前「東成郡天王寺村大字阿部野」という地名であったことから区名になりました。陰陽師「安倍晴明」ゆかりの地、また、かつてこの地を治めた「阿部氏」に因んだなど諸説があり「阿倍野」「阿部野」「安倍野」あるいはひらがな・カタカナで「あべの」「アベノ」などと表記されます。
《参考》「上町台地」
現在の大阪市街は、上町台地を除きほとんどが海でした。西側に瀬戸内海、東側には河内湾があり、上町台地はその間に挟まれた半島状の砂嘴(漂砂が静水域で堆積して形成)でした。上町台地の形状は幅2~3キロ、長さ約12キロ。北端は大阪市中央区天満橋で、南端は住吉区の苅田付近です。標高は最も高い大阪城天守閣跡で38mであり、北部は急激に淀川水系の大川へ落ち込みます。一方、南部へは緩やかに傾斜しており、大手町付近で24m、★天王寺交差点付近で16m、帝塚山付近で14mとなっています。しかし南部の万代池南方から勾配が急になり、住吉大社付近で6mとなり、台地南端の住吉区清水丘では2~3mになるのです。市内唯一の高台である上町台地上には台地の形状にちなんだ地名が多く、北から天王寺区の「真田山」「北山」「桃山」「夕陽丘」「茶臼山」★阿倍野区の「晴明丘」「丸山」、住吉区の「帝塚山」「清水丘」と続いているのです。なお、途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされてます。大和川の付け替えが典型ですが、それ以前にも上町台地を開削する試みがありました。平安遷都前の788年に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため、四天王寺の南の開削しようとしたが失敗しています。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、谷町筋の起伏、堀越町などはこの跡地と考えられています。
・・・この「南霊園」西側道の高低差からの眺めが最高です。
《大谷中学校・高等学校》
545-0041大阪市阿倍野区共立通2-8-4/06-6661-8400
http://www.ohtanigakuen.jp/index.html
1909年に大阪★難波別院(南御堂)内に大谷裁縫女学校が創立したことが、学校の起源となっている。1911年に大谷女学校と改称した。1920年には御堂筋の拡張計画が発表され、学校敷地が御堂筋の拡張用地となった。このため現在地に用地を確保して移転している。また大谷女学校の志願者の増加に伴い、1924年に高等女学校令による大谷高等女学校を現在地に開設した。この時に開設された大谷高等女学校の後身が、現在の大谷中学校・高等学校にあたる。従来の大谷女学校は大谷高等女学校と並立する形で存続し、現在の東大谷高等学校へとつながっている。同一学校法人が運営する東大谷高等学校と住所を同じくしている。東大谷中学校は1976年に廃校となった。2013大阪府堺市南区三原台に泉ヶ丘キャンパスを設立し共学となる。阿倍野キャンパスと同時に使用していたが2015年度からは泉ヶ丘キャンパスのみを使用。
大阪府では数少ない完全中高一貫校の一つとして、真宗大谷派を建学の理念とした女子教育をおこなっている。教科教育のほか、情報教育や国際理解教育にも力を入れている。本校のほか帝塚山に帝塚山学舎を持ち、勉強合宿やクラブ活動などで活用されている。
【丸山古墳跡の碑】大阪市阿倍野区丸山通2-8
http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/page/0000001570.html#06
丸山は、名の通り、円墳で優れた埋葬品が出土している。面積82平方メートルの円墳で、そのいただきに長方形と宝冠型の石塔2基が安置され、その西側やや低くなったところに、濠の跡らしい大小2つのくぼ地がありました。古墳の形状から丸山と呼ばれていました。表土は鋳物用土に適するとかで、大正2年英国海軍が大量に購入したという。1796年(寛政8)に刊行された『摂津名所図会』にも★「兼好古墳」とあり、兼好法師がこの地に隠棲していたとの言い伝えががあり、その間「徒然草」を著述したところと伝えるが不詳。
聖天山古墳には、現在正円寺939年(天慶2)光道和尚建立があり「天下茶屋の聖天さん」で親しまれている。かつて天狗塚・柘榴塚といわれる小丘があり、土器・刀剣・馬具類が出土している。また「大聖歓喜天」の門標の台石は、柘榴塚出土のもので、かつてこの近くに隠棲した★兼好法師が使用した藁打石との伝えがある。
【松虫塚】大阪市阿倍野区松虫通1-11
松虫塚の由来については、いくつかの説があり、古書「芦分船」には後鳥羽上皇に仕えた松虫、鈴虫の2人の官女が法然の念仏に発心し、庵を結び隠棲した所であると伝えられています。また、「摂陽群談」と謡曲「松虫」には、「昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、その一人が節おもしろく鳴く松虫の音を慕って行ったまま帰らないので、捜しに行くと友は草むらで死んでいた」これを葬ったのが松虫塚であるとする説や、ほかにいくつかの伝説が残っている。