・・・昭和15年「東の太宰、西の織田」と謳われたオダサクの「夫婦善哉」が世に出ます。
【夫婦善哉】
542-0076大阪市中央区難波1-2-10 法善寺MEOUTOビル/06-6211-6455
http://sato-restaurant-systems.co.jp/
今を遡ること、110年以上前(明治16年)。法善寺境内に、ちょっと変わった善哉屋が開店します。文楽の太夫、竹本琴太夫こと「木文字重兵衛」という人がはじめた「お福」という名のお店です。
http://sato-res.com/meotozenzai/history/
何が変わっていたかというと、一人前なのに二杯のお椀に分けて善哉が出てきたからです。「へぇー、こら変わっとる。なんで二つや」。聞かれると、実際にお店を切り盛りしていた重兵衛の妻「こと」と娘「かめ」はニッコリ笑って「おおきに。めおとでんね」と答えたといいます。実際は、二杯のお椀に分けた方がたくさん入っているように見えると考えたからなのですが、これが大当たり。その後の「夫婦善哉」へと繋がっていったのです。
《参考》「天牛書店」
https://tengyusyoten.wordpress.com/
“オダサク”の愛称で親しまれた、大阪を代表する小説家 織田作之助(1913-1947)。
大阪を愛し、大阪を舞台にした作品を数多く残した彼が、常連客として通った書店のひとつが天牛書店でした。明治40年の創業以来、「ふるほんや天牛」と大阪の皆様に長くご愛顧いただいている当店が、1932年に開店した★日本橋二つ井戸の店舗には、若き日の折口信夫、武田麟太郎、長谷川幸延、藤沢恒夫らも足しげく訪れ、織田作之助は出世作「夫婦善哉」の結びに「天牛書店」を登場させました。
【法善寺横丁「正弁丹吾亭」】(句碑)
542-0071大阪市中央区道頓堀1-7-12/06-6211-3208
http://www.gankofood.co.jp/news/2014/02/tangotei-open.html
「行き暮れてここが思案の善哉(よしや)かな」
《NEWS》2014.2.26産経WESTより
大阪・ミナミの法善寺横丁にある創業120年の老舗割烹「正弁丹吾亭」の営業主体が今月、飲食大手の「がんこフードサービス」(大阪市淀川区)に移ったことが25日、分かった。作家、織田作之助の「夫婦善哉」にも登場し、明治時代から創業家が4代にわたってのれんを守ってきたが後継者がなく、存続が危ぶまれていた。結局、4代目店主だった後藤照幸さん(62)が店舗をがんこ側に貸し、料理人らの雇用も守る形で“店を残す”道を選択した。正弁丹吾亭は、関東煮を看板に立ち飲み屋を営業する庶民の憩いの場として、明治26年に創業。「夫婦善哉」では、主人公の柳吉が蝶子に関東煮を食べさせて「ど、ど、ど、どや、うまいやろが」「こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」と、自信満々に講釈を述べる。作家の藤本義一や作曲家の服部良一など、大阪の文化人にも愛されてきた名店だ。平成14年の旧中座の火事では全焼したが、同じ場所でほぼ元通りのたたずまいを再現し営業を再開した。後藤さんは義祖父、義父、義母が営んできた店を継承。先代たちの昔ながらの大阪の味を守り店を運営してきたが、娘しかいない後藤さんには、経営を引き継ぐ後継者がいなかった。料理人に経営までを託すのも難しく、年を重ねるに従って店の行く末を案じるようになった。「たくさんの方に愛されているこの店を自分の代で消すわけにはいかない」。店を残す方法を模索していたところ、そのことを知ったがんこ側と経営の方向性などが一致。店舗は創業家が貸し、料理人ら全従業員の雇用をがんこが引き継いで、商標などを使用する契約を結んだ。後藤さんは先月、店主を“引退”。「これからも長く愛される店として続いてほしい」と、老舗の新たな出発を見守っている。がんこの志賀茂副会長は「正弁丹吾亭の歴史を守っていくと同時に、新たな伝統を作っていきたい」と話す。今月から「店長」となったがんこ社員の曽我部義治さん(66)も「いろんな改革にも挑戦したい」と話している。
【天王寺七坂「口縄坂」】(文学碑「木の都」)
543-0075大阪市天王寺区夕陽丘町5
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058596.html
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。(昭和十九年三月)
・・・口縄は蛇のことで、坂が蛇のように見えたというのが一般的な説だが、大阪城築城の時に縄を打ち始めた場所説、坂の登り降りが大変なので縄を手繰って往来したので寺口の縄坂と呼んだものが口縄坂となったという説もある。織田作之助が七坂の内、一番愛した坂でもある。口縄坂の真ん中に、オダサクが登下校の女子学生に憧れたという夕陽丘女学校の正門跡がある。このあたりの地名「夕陽丘」は、鎌倉時代の歌人・藤原家隆がこの地に小庵を結び、夕陽を信仰して極楽浄土へいくという日想観を修め、正座合掌しながら往生したという話が由来の一説です。
《青空文庫「木の都」》