織田作之助(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「無頼」という意味で、オダサクは「街角ミュージアム」にふさわしい作家かもしれません。これまでも織田作之助(1913.10.261947.1.10)関係は掲載してきましたが、未紹介の「ゆかりの地」もありましたので、再掲を含めて特集したいと思います。

★1913年(大正2)10月26日大阪市南区生玉前町5215大阪市天王寺区生玉前町4-19で生れる。現在、株式会社「ヨシケン」(旧吉田建材)が建っているあたりです。

http://www.yoshiken-net.jp/index.html

父織田鶴吉、母(鈴木)たかゑ家業は「魚鶴」という鮮魚店兼仕出屋で、店を半分にわけて南側で魚屋北側で寿司屋をしていたようです。この後、1917年(大正6)大阪市東区東平野町7-260に転居。1926年(大正15)4月「鈴木作太郎」は高津中学校に入学、1か月後ようやく両親が婚姻届を出し「織田作之助」となりました。

作之助の父鶴吉は結婚前、芭蕉が句を残したほどの料亭「浮瀬」の板前をしており、腕がよく女にもてたそうです。そして、その家のこいさんとの間に子をなしたということですから、オダサクに腹違いの兄がいたことになります


おださ1


《参考》上汐町公園旧町名継承碑」★東平野町3~6丁目

大阪市天王寺区上汐4-2-1

町名は天慶6年(西暦943年)河内国丹北から東高津へ遷座した平野宮の社地であったことに由来するといわれている冠称の(東)は船場の平野町と混同を避けるため付せられました。現在の上汐3~6丁目及び上本町6~8丁目の各一部です

《参考》大阪市史編纂所「各区のあらまし

https://web.oml.city.osaka.lg.jp/hensansho/exhibition/history/ku.htm

《参考》料亭「浮瀬(大阪商業大学商業史博物館専門職員・岡村良子)

現在の天王寺区伶人町、星光学院の西南にあり、7合半入るアワビの貝殻でできた杯で有名で、「摂津名所図会」や「東海道中膝栗毛」でも紹介されている。その名は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」にちなみ、アワビ貝の「身」を捨て、貝殻を杯に仕立てたことによる。上町台地の端、当時はまだ大阪の郊外だったそこからは大阪湾の船々や、遠く淡路島が見え素晴らしい眺望でも人気だった。話題づくりもうまい。芭蕉が句会を催し、近松の「曽根崎心中」にも登場する清水の茶店が浮瀬の前身だといわれる。安永7(1778)年頃には新座敷を建て増すほどの勢いがあったが、明治10年代には急速に衰退した。明治時代には織田作之助父親が板前をしていたそうで、いずれにせよ、大阪文芸史のエピソードに満ちた店であった。


おださ2


2013生國魂神社

543-0071大阪市天王寺区生玉町13-906-6771-0002

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000416.html#b10

織田作之助生誕100年目となる2013年1026日、生国魂神社境内に織田作之助像が建立された。境内には既に井原西鶴坐像があり、なにわ文学ファンの新名所になるかもしれない。


おださ3


碑文寄贈オダサク倶楽部会員石田英治

大阪を愛し、三十三年の生涯は太くて短かった。有名な「夫婦善哉」など多くの小説は、庶民の生活を題材にした。井原西鶴を師と仰ぎ、ジュリアン・ソレルを友として、上方文化の発展に大いに寄与された。生誕百年を祝して顕彰する。制作は彫刻家岡村哲伸さんです。

それは、生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、中寺町のお寺の境内の蟬の色を隠した松の老木であったり、源聖寺坂や口縄坂を緑の色で覆うていた木々であったり、・・・私はけっして木のない都で育ったわけではなかった。大阪はすくなくとも私にとっては木のない都ではなかったのである。』(木の都)


おださ4


1947楞厳寺(墓所)

543-0017大阪市天王寺区城南寺町1-2606-6768-1525

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000332.html

1947(昭和22)年1月10日、織田作之助は35歳の若さで東京の地で亡くなりますが、その葬儀は、同級生が住職を勤める天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)で執り行われ、墓も同寺内に建立されました

・・・そろそろ「ミナミ」へ移動しましょう。


おださ5


1939~1940《難波・自由軒

542-0076大阪市中央区難波3-1-3406-6631-5564

http://www.jiyuken.co.jp/history/oda.html

1910(明治43)大阪では初めての西洋料理店、「自由軒本店」が大阪難波にて創業。自由民権運動が起きていた時代背景の中、創業者の吉田四一は新しい風を感じられる「自由」という言葉を店名に冠しました。1939年頃から、稀代の小説家・織田作之助が当店へ通い始めるようになりました。後に発表される「夫婦善哉」の構想を練るためです。その際、二代目の店主吉田四郎はサインと写真「トラは死んで皮をのこす/織田作死んでカレーライスをのこす」をいただき、それは現在でも自由軒本店に飾られています。1947年、二代目の店主・吉田四郎が尽力の末、創業の地・難波に自由軒を再建させました。店舗だけでなく、創業当時の味を復活させ、それが代々引き継がれていくます

夫婦善哉より)この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧(わ)いた。あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。

《せんば・自由軒》

541-0055大阪市中央区船場中央3-3-9B-203

船場センタービル9号館地下2階06-6251-3428

http://www.senba-jiyuuken.co.jp/history/oda.html

1910(明治43創業者吉田忠次郎により大阪市南区難波新地に於いて「西洋御料理店」自由軒を開業。その後、1970年(昭和45)3月に、自由軒の第二期経営者吉田四一の五男、憲治氏が独立し作ったのが「せんば自由軒」で。2010年(平成22月21日付けで商標権・事業権・営業権及びせんば本店・本社工場を株式会社自由軒から、株式会社ベクトルに正式に引き継ぐ。

・・・本家とか元祖とか複雑な問題はわかりませんが、オダサク★「サインと写真」があるのは難波「自由軒」です。