・・・「街角ミュージアム」を巡っていると、「大塩平八郎」に関する史跡に多く出会います。太閤ビイキの大阪人を恐れていた★徳川家康の遺志を汲み、力を入れて建立された★「川崎東照宮」。皮肉にも大塩らは東照宮を決起の集合場所にしていたのです。
【大塩平八郎】(1793~1837)著:森鴎外(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2298_16910.html
森鴎外は大正3年に小説”大塩平八郎”を書き上げ中央公論に発表。
大塩平八郎は1793年3月4日(寛政5年1月22日)★「大坂天満」生まれ。大塩家は代々★「大坂東町奉行組与力」であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目。平八郎は7歳の時に父母と死別し、祖父母に育てられた。14歳で与力見習となり、成年に達してから祖父の跡を継いで与力となった。与力時代の平八郎は学識が高い清廉潔白な人物として、功績を残した。
・・・人物を調べるにあたり、まず[どんな顔?]が気になります。
《NEWS》2010.8朝日新聞より
大塩平八郎の肖像画の原画が見つかる★東北大図書館
大塩平八郎(1793~1837)を描いた肖像画の原本とみられる掛け軸が、東北大付属図書館(仙台市)に所蔵されていることがわかった。幕末維新期に活躍した狩野派の絵師、菊池容斎(1788~1878)の肉筆画で、その模写画は現在、教科書などで広く使われている。原本の存在は専門家の間で知られていたが、その所在は長らく不明だった。同図書館が所蔵していたのは、文人画家の富岡鉄斎(1836~1924)が収集したとみられる「富岡鉄斎旧蔵書画軸」の中にある「大塩中斎(=平八郎)肖像」。東北大大学院の東洋・日本美術史研究室が1953年(昭和28)京都の古書店から購入したとの記録が残っていた。絹地に描かれ、右上に容斎の署名と落款印がある。掛け軸の裏には、鉄斎の肉筆とみられる字で「菊池容斎筆 大塩中斎肖像」と記されており★鉄斎美術館の担当者は「字は鉄斎のものに間違いない。鉄斎は歴史上の人物に興味を持ち、和漢の人物画を多く入手していた」と分析。大塩の肖像画として教科書や資料などに掲載されている模写画は、大阪城天守閣と大阪歴史博物館がそれぞれ所蔵しているが、いずれも筆者名などがなく、誰がいつごろ写したのかはわかっていない。
【人相書】
1838年(天保8)大塩平八郎の乱です。この挙兵は失敗に終わり、大塩平八郎は敗走します。挙兵は幕府に対する重大な犯罪であったため、大塩平八郎は全国に指名手配され、その人相書が各地に残されています。
《1837年(天保8)3月4日「大塩平八郎」人相書》
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_15562/index.html
一 年齢四拾五六歳 一 顔細長ク色白キ方 一 眉毛細ク薄キ方 一 額開キ月代青キ方 一 眼細ク釣り候方 一 鼻常体 一 耳常体 一 背常体 中肉 一 言舌さはやかニ而、尖キ方 一 其節着用鍬形付甲着用 一 黒キ陣羽織着 但シ其余着用不分
【大塩平八郎終焉の地碑】
550-0004大阪市西区靱本町1-18-12「天理教・飾大分教会」前
大塩平八郎中斎(1793~1837)は天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。乱後大塩平八郎・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。1997年9月大塩事件研究会
・・・さて、★「大坂天満」の生まれだというので「生家」を調べることにしました。
【浪華御役録】(蔵:大阪歴史博物館)
江戸時代の大坂で勤務していた武士の名鑑。大坂武鑑とも称される。毎年2回更新されたこの名鑑には、300人を超す大坂城代以下、町奉行所の同心までをその役務別に掲載するほか、一部の商人組合の長などが掲載されることもある。大坂を中心とした畿内近国支配の様相を知るための基本資料で、当館は18世紀中期以降慶応四年(1868)までの224通を所蔵する。
【蓮興寺】(大塩家墓所)
530-0053大阪市北区末広町1-35/06-6312-7108
大塩家代々のお墓で、7歳で父母と死別した平八郎を育てた祖父母の菩提寺です。
【成正寺】(大塩平八郎墓所)
530-0053大阪市北区末広町1-7/06-6361-6212
http://temple.nichiren.or.jp/5031002-johshouji/
日蓮宗の寺院で旧本山は身延山久遠寺。増長院日秀の開山で、1604年に建立された。境内に大塩平八郎の墓があることで知られ1945年、大阪大空襲で焼失し大塩平八郎の墓も破壊されたが再建された。大塩平八郎の家元である大塩家本家は江戸時代以降、名古屋自壁町を本拠とし、身延山直末大光寺を菩提寺としていたが、大阪町奉行の与力となった分家が本家の縁故で、同じ身延山末の成正寺を菩提寺としたとのこと。