【大塩の乱槐跡】
天満1丁目25国道1号沿い
天保8年(1837)挙兵した大塩方がまず最初に大砲を撃ち込んだのが、この場所。樹齢200年の槐(えんじゅ)の木に砲弾が当たり、大きく裂けたと伝わります。引き裂かれた槐が、150年近く枯れずに残っていましたが、昭和59年、ついに枯れ死しました。平成22年1月3代目となる若木が植樹されました。
【与力役門】
造幣局の敷地には、東町奉行配下・天満与力の中嶋家の門「与力役宅門」が残っています。老朽化のため2000年(平成12)に改築されましたが、中からふらりと武士が出てきそうな佇まいです。江戸時代の大阪東町奉行所配下の天満与力・中嶋家の役宅門です。当時この一帯は、与力たちの邸宅が並ぶ場所でしたが、唯一この、門だけが現在に残ります。
【洗心洞跡】
大阪市北区天満一丁目25造幣局官舎内
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009985.html
江戸時代の儒学・陽明学者で天満与力の、大塩平八郎の私塾跡で、平八郎はここで教育と著述に専念していた。当時凶作が続き、庶民は疲弊していた。そこで自分の蔵書を処分して救済するなどしたが、それに対する幕府の政策に憤激、準備の整わないまま天保8年(1837)2月19日窮民救済と政治の覚醒をめざして挙兵、大砲を放った最初のところである(大塩の乱)。乱は半日で鎮圧されたが、その影響は各地に波及、一揆が続発して幕府に大きな打撃を与えた。(大阪市顕彰史跡)
飢饉と暴政による大坂の惨状は結果、米価を六・七倍に急騰させ、大坂市民の殆どがその日暮らしを余儀なくされ、餓死者は一冬で五〇〇〇人に達する有様だった。既に甲斐、三河加茂を皮切りに全国で一揆・打ちこわしが続発しており、平八郎は大坂でも同じことが起こりかねないことを訴えるも、跡部が耳を傾けることは無く、既に労咳(肺結核)に体を蝕まれ、余命幾許もないこともあって、平八郎は決起を決意した。同年九月、蔵書をすべて売り払った平八郎は後々累が及ぶことを懸念して妻を離縁し、全財産を売却して得た金銭を武器・弾薬・檄文(そしてそれを読んでもらう為の謝礼)に注ぎ込んだ。
一〇月、平八郎は洗心洞の信頼出来る塾生に打ち明け、米価益々値上がり・それを悪用して暴利を貪る悪政を怒り、奉行に対する反逆を声明し、大坂市民に蜂起を呼び掛ける「檄文」を刷りにかかった。挙兵は天保八(1837)年二月一九日に決定した。計画は天満にて西町奉行・堀利堅(ほりとしかた)、東町奉行・跡部の両名が巡回途中、朝岡邸で休息する時間を狙って、爆殺するもの。平八郎は自らの兵力が微々たるものであることを自覚しており、悪徳官吏・悪徳商人の打倒が幕閣を動かし、大義が通ること期待し、挙兵前日、書き上げた数々の書類を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託した。しかし、計画は密告によって露見したため、平八郎は自宅に火を放って、養子・格之助とともに予定を早めて挙兵し、『天照皇太神宮』・『湯武両聖王』・『八幡大菩薩』・『東照大権現』 (前から順に「皇祖の女神」・「暴君を倒して新王朝を打ち立てた殷の湯王と周の武王」・「源氏の氏神」・「徳川家康の尊号」)等と書かれた旗を持ち、『救民』と大きく染め上げられた幟を風に靡かせて、集合場所の川崎東照宮から天満橋筋を南下した。
だが、周知の通り、大塩平八郎の乱は大坂城から出て来た奉行軍に半日持たずに敗れた。跡部の指揮は稚拙の一言だったが、密告によって準備不足の蜂起を余儀なくされ、武器の質と量の前に敗れたものだった。天満橋の八軒屋船着場から船で逃走した大塩父子はその後四〇日に渡って、大坂の町を逃げ回り、幕府方は躍起になってその行方を追った。大坂の街中を逃げ回る平八郎の唯一の希望は江戸に宛てた大坂町奉行告発の密書が採り上げられることだったが、密書は箱根山中で発見されて幕閣には届かなかった。潜伏しながら来る筈もない吉報を待ち続けた大塩父子も三月二七日に靭油掛(うつぼあぶらかけ)町の隠れ家に潜伏していたのを探索方が取り囲まれ、最早これまで、と見た平八郎は予てから用意してあった爆薬に火をつけて、壮絶な爆死を遂げた。大塩平八郎正高、享年四五歳。
・・・その30年後の「明治維新」を、平八郎は予見していたのだろうか。