・・・「天満宮]つながりで、
【川崎東照宮跡】
530-0043大阪市北区天満-丁目24滝川小学校前
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009987.html
大坂夏の陣(元和(げんな)元年、1615)後、大坂城主となった松平忠明(ただあきら)が元和3年建立した。徳川家康はこの前年没して、徳川家ゆかりの各地に東照宮を建てており、とくに大坂では豊臣氏への思慕の念を払拭するねらいももっていた。毎年4月17日の忌日前後5日間は権現(ごんげん)祭が催され、市内随一の祭日になった。大塩の乱で焼失復興したが、成辰戦争のときは長州藩の本営にもなった。明治6年廃絶、神輿(みこし)蔵と石灯籠は天満宮境内に現存する。
《参考》川崎東照宮の承継と道了大権現の再興
http://www.haginotera.or.jp/outline/history_ep03.php
徳川家康をまつる東照宮は、日光市にあるのが有名ですが、各地にも分霊がまつられました。大阪でも幕府の大阪支配の拠点とするため、家康の死の翌年である元和3年(1617)4月、家康の外孫であり大坂城主の松平忠明が、天満川崎の地(現在の造幣局西側)に日光東照宮のそれに勝るとも劣らない社殿を造営しました。これが「川崎東照宮」です。かつて家康が茶席に出掛け庭の雅趣を楽しんだとされる織田有楽斎の別荘地を選び、勧請されました。以後、毎年4月と9月の17日に「権現まつり」が催され、「浪花随一の紋日(特別な日」といわれるほどにぎわいました。しかし、明治6年(1873)、明治維新後の反徳川、豊臣再興の風潮で廃社となり、その後どうなったかは大阪の歴史において空白となっていました。ところが、昭和57年「東光院]経蔵から発見された文書や絵図により、川崎東照宮が廃社直前に当山に遷座されていたことが判明しました。現地蔵堂が東照宮本地堂「瑠璃殿」であり、その際文書類と一緒に発見された薬師如来が御本地仏であることがわかったのです。それらの文書には、今は廃絶した別当寺・建国寺の名跡を継いだ当山八世大雄義寧禅師による、艱難辛苦の護法運動の結果、完遂された護持であったことが克明に記録されています。当山の寺紋が東照宮葵紋となった所以です。明治維新まで250年間続いた川崎東照宮「権現まつり」は、明治6年のその廃社後も天満六組の応援をえて、明治40年まで続けられます。その後、東照宮を動座した由緒をもつ当山は、この権現まつりを「萩まつり道了祭」として承継し現在にいたっています。東照大権現と道了大権現の符合です。祭神の道了大権現は、名を妙覚と号し、修験道の奥義を極め、神変自在の神力を現した室町時代の禅僧で、小田原の大雄山最乗寺の開山・了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師に随身していましたが、応永18年(1411)了庵禅師遷化の翌日、山門守護を誓願、天狗に化身して神籍に加えられた仏様です。関東地方では「小田原の道了さん」と呼ばれ、畏敬され信仰されています。天正18年(1590)、豊臣秀吉公が小田原征伐の陣中にて夢告を受け、「両翼脱落」の奇瑞を得たことから、遠く大阪の発展を願って大雄山最乗寺より勧請されました。以来、「道了祭」は大阪の名物とされ、火神商神・火盗除災・心願成就の権現様として多くの善男善女の帰崇をお受けになっています。おまつりしている道了堂は、寺伝では小田原藩の寄進で大阪市内玉江橋付近に建てられたものを移築したもので、『摂津名所圖繪檜大成』に「道了権現祠 右同所東小田原御蔵やしき内にあり霊験いやちこなりとて詣人絶えることなし」という記事がそれに該当し、明治36年に中津本院を経て、豊中の現在地に移築されました。平成6年に本格的解体修理工事が行われ、その際、天和4年(1684)の修理札が発見されました。
【鉾流橋】大阪市北区西天満1丁目~北区中之島1丁目
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000024056.html
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000921.html
北区のオフィス街。大阪市役所や中央公会堂などが立ち並ぶ中心部にその橋はかかっている。大阪市立東洋陶磁美術館と天満警察署をつないでいる橋が、「鉾流橋」である。ふだん何気なく歩いている散歩道であったり通勤道だったりするかもしれないが、この名前の由来は意外と古い。大阪の夏を彩るものに★「天神祭」がある。船渡御には百艘ほどの船が大川を埋め尽くし、百数十万人ともいわれる見物客が繰り出す浪花を代表する夏祭りである。すれ違う船同士で大阪締めを交換し、頭上で大輪の花を咲かせる花火にみとれ、橋の上にも両岸にも見物の人であふれている。まさに都市祭礼絵巻を写しているかの如くである。そうした見物人が橋の上にあふれる。そんな橋のひとつに鉾流橋がある。さて、この天神祭。いつのころから行われているのだろう。大阪天満宮は、社伝によれば949年(天暦3)に創祀されたという。そして橋の名前ともなった鉾流神事が始まったのが、2年後の天暦5年。では、鉾流神事とは、どのようなものなのだろう。この行事は、現在でも7月24日天神祭宵宮の早朝に厳かに行われている。この行事は祇園祭と同様に神童を選出し、小舟で大川へ漕ぎ出し神鉾を流すというものである。つまり、社頭の浜から大川に神鉾を流し、その年の神霊渡御地を決定する行事である。神鉾が流れ着いた場所を仮のお旅所として渡御行列が向かったのである。しかし、江戸時代の初めにはこの行事は、お旅所の常設化にともなって廃絶したといわれる。大阪町衆の切なる要望によって1930年(昭和5)に復活し、現在へ受け継がれている。天満警察署の前に立つ鳥居のある場所が、神鉾を流す浜である。そこへかけられた橋の名が「鉾流橋」となった。この橋は、その年の天神祭の開始を知らしめる名であり、庶民の憧憬である祭りにちなんだ橋梁名である。大阪天満宮への参道の船着場でもあり、江戸から戦後にかけて全国から昆布や椎茸などの乾物の集積場でもあった。参道には乾物商が軒を連ね賑わったそうです。大阪の天満は全国乾物商の発祥地。その乾物商たちが寄贈した石灯籠が建っています。
《NEWS》2008.7.7大阪日日新聞より
宵宮祭の早朝に執り行われる鉾(ほこ)流し神事。天神祭の始まりを告げるとされる儀式もまた、長い年月の中でその姿や意味合いを変化させてきた。中断から再興、そして継承という流れの中で祭りを受け継ぐ人たちの姿が浮かび上がってくる。鉾流しは「夏越の払え」と呼ばれる穢(けが)れ払いの儀式が原点にある。穢れ払いの儀式が天神信仰の変遷とともに、御神霊の行く先を決める神事へと姿を変え、常設の御旅所が設営された一六四四年ごろに中断された。当時、隆盛を極めた大阪商人たちは儀式よりも、華やかな祭りとしての「天神祭」を求めた。一九三〇年の神事再興以降、神童を推薦し、陸渡御で鉾台を繰り出す役目を担ってきたのが西天満地区の住民でつくる西天満連合神鉾講(野村祐三講長)だ。設立から再来年で八十年を迎え、関係者が過去の歴史を振り返る作業を進めている。過去の神童奉仕者は六十七人、歴代講長は十二人。神童のうち十二人は戦時中の混乱などで氏名さえ分かっていない。「過去を知る地域の高齢者が年々減ってしまい、記録が途切れてしまっている。八十年を迎える前に全員を探し出したい」と野村講長(76)。「記録の洗い出しは節目に講長を務める自分の仕事。誰かがやらなければ記録は失われていく」と伝承の重要性を訴える。新たな記録も見つかっている。
大阪天満宮の柳野等祭儀部長は昨年、明治期に書かれた「鉾流講設立之趣意書」という書面を発見。巨大な木製の鉾を製作し、船渡御に参加させていたという記述から、鉾流し神事を復活させようとした人たちの存在を知った。柳野さんは「絶えて久しい神事を復活させるために、象徴となる巨大な鉾を作った人たちの存在が、神鉾講の設立に大きくかかわっている」と話す。現在、鉾台に据えられているのはこの巨大な鉾を改修したものだという。八十周年を前に、一年をかけて鉾台が修繕され、化粧直しも整った。修繕の様子は映像として記録され、美しい姿を取り戻した鉾台とともに、次の世代へと受け継がれていく。また、三年前に亡くなった神職の遺品から発見された譜面をもとに、柳野さんらが再現した「鉾流歌」の音源を録音した保存用CDを作成。再び音源が失われぬよう関係者に寄贈する。
《参考》「太平橋」
天満堀川の最下流、堂島川に面する場所に架けられた橋。第一次都計事業ではCアーチが架けられた。中之島一帯はパリのシテ島を手本として一体感のある都市景観を創り出す。そのため堂島川に注ぐこの場所にもアーチ橋が採用されたらしい。堂島堀割の柳橋、中之島掘割の秋月橋、西横堀川の西国橋も同様の理由からCアーチが採用されている。昭和40年代の阪神高速建設・堀川埋め立てでは、最下流のこの橋だけ埋め立てずに残されたという(西横堀川の金屋橋のような状態)。しかしそれも、昭和60年に行なわれた下水事業に伴う工事で撤去された。撤去年が遅いこともあり、親柱が4つとも残されている。加えて先々代の橋の親柱も一つ残されている。形式からして明治~大正時代のものであろうか。『橋梁年表』では1902年(明治35)に木橋が架けられた記録がある。