街角ミュージアム(21) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・以前にも紹介しましたが天満宮の前には「朝陽会館」があります。

《朝陽会館》

530-0041大阪市北区天神橋1-17-8/06-6357-0844

http://choyokaikan.com/

第八回大阪天満宮梅まつり勧進御能

平成28年月28日(日)午後時半始(午後時開場)大阪天満宮本殿

【大阪天満宮】

530-0041大阪市北区天神橋2-1-8/06-6353-0025

http://www.tenjinsan.com/

901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。毎年月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。


てんま1


天神信仰

天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天、天満大自在天神などの神号が確立することにより、さらには、実道権現などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数ある。

大将軍

陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。古代中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または太白と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。大将軍は年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日が定められ、その間は凶事が無いとされた。


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龍門

中国の故事(黄河上流の滝の下に鯉などが集まり、殆どが達成できないが、もし登りきれれば龍になるという)に基づいた門です。それが転じて、この門を通り抜ければ、必ず出世するといわれるようになりました。登竜門は「難関突破の門」を意味します。

初天神梅花祭

毎月25日は菅原道真公の御縁日である。1月25日は菅公左遷の命の下った日であり、この日を追憶し菅公の御霊を慰めるために、愛でられた梅の小枝を神饌に添えてお供えすることから「梅花祭」という名称が起こった。また、年の始めの御縁日であることから、この祭を「初天神」と称している。因みに1225日を終(しまい)天神と称する。

《うそ替え神事》

正直の神としての天神信仰から生まれ、平素の嘘を菅公の愛鳥 「うそ鳥」に託し誠に替え、罪穢れを祓いやり福を招く神事である。


てんま3


NEWS2015.9.18日本経済新聞より

知の集積 大火への守り大阪天満宮の御文庫(時の回廊)

「学問の神様」の菅原道真をまつる大阪天満宮(大阪市北区)の境内の北西角に「御文庫」と呼ばれる土蔵がある。収められているのは江戸中期以来、大阪の出版元が奉納した和漢の書籍約10万冊。現在の国立国会図書館への納本制度に似た仕組みで、数々の書籍は大阪の出版界が活況だった様子を今に伝える。御文庫は2階建てで、人の背丈以上の書棚が並べられ、「書林」という言葉を地でいく。現在の土蔵は1920年の改築。内部に火が回らないよう、入り口の二重扉のうち外扉は、表面を土と漆喰で覆った土扉になっている。1階は主に漢籍、2階は和書を保管する。同宮の御文庫に詳しい大阪大学招聘教授、高島幸次さんによると、同宮に関係する書籍や、思想、経済、文学など様々なジャンルの書があり、道真が「連歌の神様」としてもあがめられたことから連歌・和歌関係が充実。室町末期に筆写された「平家物語」や、慶長年間に後陽成天皇の勅命で刊行された「日本書紀(神代巻)」など貴重書もある。同宮への書籍奉納が定例化したのは江戸中期の1730年。大阪の出版元の有志が「天満宮御文庫講」を結成、初摺り本の奉納を始めた。住吉大社(大阪市住吉区)でも出版元有志の講が初摺り本を奉納しており、天満宮へはこの3年後。天満宮は毎秋、住吉大社は毎春と時期を変え、奉納と虫干しが行われた。高島さんは奉納の理由として、祭神への崇敬とともに、大火への備えを挙げる。出版元が火災で版木を失った際は、奉納本を借り出して再版の原本にした。「かなりの出版元が両方の講に加盟していた。天満宮と住吉の距離を考えると、両方が同時に火事に遭う事態は考えられず、原本を確実に残せた」という。大阪天満宮は1837年、陽明学者大塩平八郎が起こした乱で類焼。御文庫も焼失したが、御文庫講は市中に出回っていた書籍を集めるなどして再建した。このため、大塩の乱以前に刊行された書籍もあるとされる。書籍とともに、書も奉納された。その一つが鎌倉前期の歌人、藤原定家の筆とされる色紙。平安後期の歌人、藤原基俊の「基俊集」にある歌を記している。元は大阪府池田市の酒造家で文人の山川正宣(まさのぶ)が所蔵。山川の死後の1865年、親族から出版元が入手し、奉納したとみられる。いつの時代かに、大阪天満宮と住吉大社の御文庫講は合併し「大阪書林御文庫講」と改称。天満宮への奉納は1960年ごろまで続いた。その後、書籍の虫干しは一端途絶えたが、大阪出版協会の会員有志が98年に復活させた。各社2、3冊と制限を設け、書籍奉納も再開した。天満宮の御文庫の虫干しは、秋の好天の日に行われる。一日に風を当てられるのは収蔵書籍全体の1割程度で、全て終えるには10年ほどかかる。虫干しの世話役、燃焼社(大阪市)の藤波優さんは「会員はみんな本好きですから、気長にやっています」と笑う。

星合池

境内の北側にあり、通称亀の池とも呼ばれています池畔には、社家や氏子崇敬者の祖霊を祀る祖霊社や★「川崎東照宮の鳳輦庫がありますまた、池の周辺は梅林になっていて、梅の季節にはふくよかな香りが、あたり一面を覆います池のほとりの星合茶寮は都会の中の数少ないオアシスとして付近のサラリーマンなどが昼休みの憩いの場として利用されています。池に架かる橋は、愛嬌橋と呼ばれ、その昔この橋の上で出会った男女は、結ばれると言い伝えられていました。現在では毎年7月7日の七夕の日に星愛七夕まつりというイベントがおこなわれています。明治21年架橋の天神橋、天満橋のアーチが2面置かれている。


てんま4


川崎東照宮

徳川家康は、1616年(元和17日に死去し、同年九月に後水尾天皇から「東照大権現」の号が勅賜されました。大坂城主であった松平忠明は、天満川崎の地に祖父家康を祀る東照権現宮(川崎東照宮)を造営しました。その場所は現在の天満一丁目のうち造幣局宿舎から滝川小学校・幼稚園のあたりです。当宮境内の三基の灯篭は、川崎東照宮造営の際に忠明によって献灯されたのです。江戸時代を通じて、家康の命日17日が例祭日で「貴賎群を成す」と言われました。東照宮の宮前にあって、二百数十年におよぶ「良き時代」を見つめ続けてきた忠明寄進の石灯篭は、四基あったのですが、恐らく1873年(明治)に川崎東照宮が廃社になったとき、一基だけがはぐれてしまったのでしょう。


てんま5


【相生楼】

530-0041大阪市北区天神橋1-16-1206-6356-0001

https://www.temmangu-kaikan.jp/banquet/aioi.html

明治末期に創業して以来190年という老舗で、大阪を代表する超有名な料亭の一つです。大阪天満宮さんとの縁も深く、天満宮での婚礼や式典をはじめ、天神祭にも相生楼さんのお料理が供されます。戦争で焼けてこの地に建ったのは戦後のこと。それでも70余年の時が刻まれているので重みがあります。元は菅原町にあったのを今の地に移転されたのだそうで、日本人初のノーベル賞受賞作家川端康成生誕の地でもあります

1899年(明治32)月14日、大阪市北区此花町1丁目79番地(現在の北区天神橋1)で生まれた。康成の父で医師だった栄吉はこの地で開業していたのだが、しかし結核を患い1901年(明治34)死去。翌年、母・ゲンも亡くなり、康成は姉と共に祖父母に引きとられ、大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市)に移り住んだ。現在は大阪天満宮の正門斜向いにある料亭「相生楼」の門前に『川端康成生誕之地』と記された石碑がひっそりと建っている。その後、康成は茨木中学校から東京の第一高等学校、東京帝国大学へ進み、文壇で活躍するが1972年月16日に死去。1985年には茨木市川端康成文学館が開館している。