街角ミュージアム(20) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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口縄坂織田作之助文学碑」》

大阪市天王寺区夕陽丘町5口縄坂

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000504.html

http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058596.html

「木の都」より

口繩とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだ


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《法善寺横丁「織田作之助文学碑」》

大阪市中央区道頓堀1-7-12正弁丹吾亭前

「夫婦善哉」行き暮れてここが思案の善哉かな

小説家織田作之助は、大正2年10月、生国魂神社の近くで生まれた。彼は郷土大阪をこよなく愛し、終生大阪を離れず、出世作「夫婦善哉」をはじめ、大阪の市井人情を描いた名作を多く残したが、昭和22年1月、読売新聞に「土曜婦人」を連載中、胸患のため惜しくも34歳の若さで世を去った。その命日が十日戎の日に当たるのも彼らしいというべきか。


らくご2


《参考》ぜんざいの語源

(1)仏教用語である「善哉(ぜんざい・よきかな)」を由来とする説。一休宗純が最初に食べたとされ、この食べ物の美味しさに「善哉」と叫んだ事から名称とされた。「善哉」とは仏が弟子を褒める時に使う言葉であり、サンスクリット語の素晴らしいを意味する「sadhu」の漢訳である。

(2)出雲地方の神事「神在祭」で振る舞われた「神在餅」を由来とする説である。「神在餅」の「じんざい」が訛り、「ぜんざい」へと変化したと言われている。


・・・「法善寺横丁」約80メートルほどの東西出入口に、風情のある法善寺横丁の木造看板がかかっています。これを揮毫したのが先日亡くなった3代目桂春団治」さん(東側出入口)と、大阪が誇る喜劇王・藤山寛美師匠(西側出入口)。西側にある寛美さんの看板よく見ると、「法善寺」の「善」の字に横棒が1本足りません。なぜ棒が1本足りないのかいろいろ説あるのですが、寛美さんが筆をとった「わしはそない善い人間やないさかいに」ということで字を1本抜いて「善」にしなかったという説や、法善寺は飲み屋町なので「(酒が)もう1本たらんで」という意味を込めてやったという説など、そんなこと考えながら「春団治」さんのお別れ会へ。


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NEWS2016.1.26朝日新聞デジタルより

「美しい高座、心に刻む」桂春団治さんお別れの会

戦後の上方落語復興を支えた四天王の最後の一人で2016年1月9日に85歳で亡くなった落語家、三代目桂春団治さんの「お別れの会」が26日、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」(大阪市北区)で開かれた。2006年開場の繁昌亭で落語家のお別れの会が開かれるのは初めて。舞台上の祭壇には柔らかな笑みを浮かべる高座姿と得意の踊りを見せるりりしい姿の2枚の遺影が飾られ、代名詞の出囃子「野崎」を奏で開会した。実行委員長を務めた桂文枝・上方落語協会会長は「師匠の落語と向かい合う真摯な姿、美しい高座はいつまでもみんなの心に刻まれます。私はこれから戦後復活上方落語の『第二章』が始まると思っています。どうか、お見守りください」とお別れの言葉を述べた。桂ざこばさんは「なんで泣くんやろ。好きや。大好きや!」と号泣。笑福亭鶴瓶さんは「四天王の思いを少しでも持ってこれからもがんばっていきます。何とか、がんばります。時々この繁昌亭に来て僕らを見といてください。本当に本当に、お疲れさまでございました」と話した。落語協会(東京)の柳亭市馬会長らも参列。献花の際には春団治さんの「親子茶屋」などの映像が映しだされた。主催の上方落語協会によると、一般もあわせて約1千人が別れを惜しんだという。

【お別れの会・概要】

日時:平成28年1月26日(火)午前8時30分 ~ 10時(予定)

会場:天満天神繁昌亭実行委員長:桂文枝

主催:公益社団法人上方落語協会

一般の方は、8時半頃から11時まで繁昌亭の外にて、献花して頂きます。その後、当日16時まで繁昌亭前で師匠の遺影を飾り献花台を設けております。


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天満天神繁昌亭

530-0041大阪市北区天神橋2-1-3406-6352-4874

http://www.hanjotei.jp/index.html

繁昌亭は、2003年に上方落語協会会長に就任した桂三枝(後の代桂文枝)が、天神橋筋商店街で落語会を行える空き店舗の提供を商店街側に依頼したことに始まる。商店街はこの提案を大阪天満宮に持ち込み、上方落語協会も交えて話し合いを重ねた結果、天満宮用地に落語専門の定席を新設することで合意。1957年に戎橋松竹が閉場して以来、半世紀ぶりに大阪に寄席が復活することになった。2005年12月1日に着工、2006年8月8日に竣工、2006年9月15日開席。初代席亭には朝日放送出身の岩本靖夫が就いた。岩本は2006年10月に退任。その後2007年1月に「支配人」の名称で、和歌山放送出身の恩田雅和が席亭に就任。「繁昌亭」の名前は、代目笑福亭松鶴の発案により千里中央のセルシーホールで上方落語協会が主催していた落語席「千里繁昌亭」に由来する。用地は大阪天満宮の寺井種伯宮司の好意により、無料で提供された。当初は設立への反対意見もあったが、建設費用については「繁昌亭建設募金」を置く事で設立に至った。建設費約2億4000万円は個人や企業からの寄付金で賄っており、その中には桂かい枝がブルネイでの公演で大臣から受けた寄付も含まれている。こけら落としの前後には、在阪各局による生中継をはじめとする特別番組やニュース報道などで取り上げられ、東京でも関連イベントが開かれた。


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地上鉄筋3階建、敷地面積591.06 m²、建築面積457.76 m²、延床面積589.93 m²。座席は1、2階の216席。設計者は狩野忠正建築研究所、施工者は★「錢高組。高座や客席の数等は、東京にある複数の寄席を参考にしており、上方落語協会副会長の4代目林家染丸が建築家と共に調べ歩いた。劇場内外の天井には、募金をした人々の名前や団体約4,500件分の名前の書かれた提灯が並べられている。舞台はヒノキづくりで、高座の膝隠は、5代目桂文枝が使っていた物を用いている。また、舞台正面上部に掲げられている額の字「楽」は、明治時代に大阪府船場淡路町にあった「桂派」の寄席「幾代亭」の額の字「薬」に由来する。この額の字は3代目桂米朝による直筆であり、また彼の好きな字でもある

上方落語隆盛の時代の象徴として語り継がれている「赤い人力車」が復活。この人力車は、初代桂春團治が多忙のために移動の手段として使用したとされるものを復元しており、多額の借金による「火の車」の洒落になっている。桂三枝(現・六代桂文枝)が「劇場らしい雰囲気を作り、呼び物になるようなもので盛り上げたい」と提案し、親交のある鈴木美智子が静岡の職人に制作を依頼、寄付をした。2006年9月15日にはこけら落としの記念として、代目桂春団治がこの人力車に乗り、三枝が車引きに扮して天神橋筋商店街をパレードした。初代春團治が活躍した時代をモチーフに建設された繁昌亭にあわせ、明治時代の様式による、黒い屋根付きの特殊郵便ポストが設置された。投函者第1号は、除幕式に立ち会った桂三枝。


・・・これから「天満宮]にお参りです。