・・・「谷町」の地名は、西へ落ち込む上町台地の谷地形に由来する。8丁目と9丁目北部は谷町八丁目筋寺町と呼ばれる寺町で、西隣の中寺(生玉筋中寺町)にかけて★寺院が多い。そして、様々な歴史的人物との関係や墓所があり、ミュージアムといっても過言ではない。
【法性寺】
542-0065大阪市中央区中寺1-1-32/06-6761-5695
http://homepage2.nifty.com/Hossyoji/
法性寺は1598年(慶長3)豊臣秀吉没年に創建されました。幕末から明治に掛けて★坂本竜馬が身を隠したり、オランダの医師★ボードウィンが逗留して隆盛を極めていましたが、昭和20年の空襲で焼失し、復興を重ね今日に到ります。明治天皇は、京都から東京に遷都するに先立ち、1868年(慶応4)2月3日から40日間大坂に行幸され、4月6日に沙汰書を下されました。この中に病院建設の一項があり、明治元年12月に、大阪府仮病院を開設(場所は鈴木町代官屋敷跡(現中央区法円坂2丁目)と推定)。修築のため、上本町8丁目寺町「大福寺(現天王寺区)」に発足、2年2月大阪府はボードウィンに在勤を命じたとのこと。明治2年7月19日、大阪府病院が鈴木町代官屋敷跡に修築竣工。同11月には西隣に医学校病院が開校。明治3年2月、大阪府医学校病院は大学校の管轄となり、3月ボードウィンは任期を終えた。
1869年(明治2)1月からオランダ医師ボードウィンが治療を始め、2月に正式に大坂仮病院が開院しました。院長は★緒方洪庵の次男惟準です。当時大坂で医学を学びたいと新興の意気に燃えた志望者は全国から集まり100余名に達したといいます。敵塾から仮病院と続く医学教育は現在の★大阪大学医学部へと受け継がれています。明治3年2月には、ボードウィンの設計による「大阪軍事病院」が大阪城内にできる。その後、1872年大阪医学校と病院が建設されました。明治3年2月、軍事病院・陸軍軍医学校が正式発足。ボードウィンは雇用契約を延長して、診察と軍医教育を行う。6月、大坂軍事病院を辞し、帰国のため、横浜に滞在。その後、7月頃から10月頃まで大学東校(現東京大学医学部)で、講義を行い、帰国。
《妙普山「常國寺」》(梶井基次郎墓所)
542-0065大阪市中央区中寺2-2-15/06-6761-3460
http://www.nichirenshu-osakashi.org/map/tera_map/osakashi-chuo/jokokuji.html
《梶井基次郎文学碑》大阪市西区靱本町一丁目靱公園内
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058578.html
梶井基次郎は、1901年(明治34)大阪市西区土佐堀通五丁目(現西区土佐堀三丁目)に生まれ、1932年(昭和7)3月24日死去した(3月24日「檸檬忌」)。江戸堀尋常小学校に入学後、父の転勤により、小学校を二度(東京、鳥羽)、中学校を一度(大阪)変わり、大正8年北野中学校(現北野高等学校)を卒業、第三高等学校(現京都大学)を経て、東京帝国大学文学部英文科にすすんだ。中学校時代発病した病気が、彼の生涯を苦しめた。大正14年、中谷孝雄、外村繁らと同人誌『青空』を創刊し、その創刊号に★「檸檬」を発表、以後、「城のある町にて」「泥濘」「路上」「橡の花」「ある心の風景」などを次々に発表した。大正15年、病状が悪化し、転地療養のため、伊豆湯ヶ島温泉落合楼に投宿、昭和3年5月まで同地に滞在した。この間、同地に滞在中の川端康成を訪ね、自作についての批評を乞い、以来川端に親近した。昭和2年、『青空』休刊後は、『文芸都市』の同人となった。昭和3年、「蒼穹」「冬の蝿」「ある崖上の感情」などを発表したが、病身となり、臥床するときが多く、同年9月、静養のため帰阪した。その後、昭和6年には、三好達治、淀野隆三らの尽力で創作集「檸檬」を出版し、翌7年には、「のんきな患者」を『中央公論』に発表して、初めての原稿料をもらった。しかし、病状が悪化、31歳の短い生涯を閉じた。彼の死後、作品は高い評価を得た。彼の作品は、自らの心の中を洗練された詩的な文章であらわしたもので、「珠玉のような作品を書き残した作家」といわれている。
《NEWS》2015.8.21
梶井基次郎『檸檬』で知られる「丸善 京都本店」10年ぶりオープン
604-8032京都府京都市中京区河原町通三条下ル山崎町251
京都BAL地下1階・2階/075-253-1599
https://www.junkudo.co.jp/mj/news/detail.php?news_id=77
http://www.bal-bldg.com/kyoto/maruzen.html
京都における丸善は、1872年(明治5)に「京都支店(丸屋善吉店)」として開設され、その後一度閉店した後、1907年(明治40)に三条通麩屋町に再開設されました。梶井基次郎の小説『檸檬』の舞台となったのは、この麩屋町の丸善です。その後、1940年(昭和15)に河原町通蛸薬師へ移転し、2005年に閉店。閉店時には、閉店を惜しむ来店客が本の上にレモンを置く様子が話題になりました。
【楞厳寺】(織田作之助墓所)
543-0017大阪市天王寺区城南寺町1-26/06-6768-1525
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000332.html
1597年(慶長2)僧・禅牛の開創である。楞厳寺には織田作の名で親まれ浪速の体臭をもつ小説を発表した織田作之助(1913~1947)の墓所がある。彼の名を一躍挙げたのは「夫婦善哉」である。織田作之助は1913年(大正2)に生れ、府立高津中学から第3高等学校文科に入学したが、病気退学の止むなきに至った。そののち新聞記者としてジャーナリストの世界に入り、当初は劇作家を志していた。しかしスタンダールの小説「赤と黒」を読み小説家となることを決意したという。以後「夫婦善哉」のほかの作品で大阪の庶民のねばり強い人生、風俗を描き人気作家の仲間入りをした。しかし読売新聞に「土曜夫人」を連載中、未完のまま36歳の若さでこの世を去った。母校である★高津中学校(現高津高校)には織田作之助記念文庫が設けられている。
【生國魂神社】
543-0071大阪市天王寺区生玉町13-9/06-6771-0002
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009729.html
★作家、織田作之助の生誕100年を祝い2013年(平成25)10月26日、生国魂神社(大阪市天王寺区)で新たな銅像がお披露目された。生国魂神社は作之助の生家(大阪市南区生玉前町5215)の向かいにあり、彼の幼少時の遊び場であると同時に、作品に何度も登場する。銅像は1.3㍍の立像で、愛用のマントと帽子を身につけ、師と仰いだ井原西鶴の銅像に顔を向けている。愛好家らでつくるオダサク倶楽部の会員、石田英治さんが寄贈。