・・・病院内にもいろいろな絵画作品が飾られています。さて「難波宮調査事務所」に行ってみましょう。
【大村益次郎殉難の碑】
540-0006大阪市中央区法円坂2丁目・国立大阪病院南東角
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009671.html
1824年(文政7)周防に生まれた。1846年(弘化3)23歳のとき来坂、★適塾に入り僅か1年で塾頭になっている。1869年(明治2)兵部大輔に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、現在の碑の近くにあった「浪華仮病院(★大福寺から当所へ移転)」で右脚切断の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区★竜海禅寺)に葬られている。
【難波宮調査事務所「資料展示室」】
540-0006大阪市中央区法円坂1-6-41/06-6943-6836
http://www.occpa.or.jp/ikou/miyajimu/miyajimu.html
難波宮跡公園南東隅にある調査事務所には、難波宮跡、大坂城跡、森ノ宮遺跡などから出土した資料(約5,000年前から数百年前)を公開する小さな展示室があります。大阪歴史博物館に比べ、あまり目立ちませんが、生の資料をごく身近に感じることができる施設であり、難波宮散策に合わせ、足をお運びください。
★難波宮調査事務所資料展示室は、都合により次の期間一時休室いたします。ご不便をおかけしますが、ご了承お願いいたします。
平成27年11月16日(月)~平成28年3月末
大阪東部に海(河内湾)が入り込んでいた縄文時代(5,000~2,800年前)の 森ノ宮遺跡から出土した土器や貝塚の資料があります。弥生時代(2,800年前~3世紀後半)の土器や石包丁・石斧、続いて 古墳時代(3世紀後半~6世紀)から難波宮が築かれた飛鳥時代(7世紀)・奈良時代(8世紀)までの資料が並び、難波宮で使われた硯や文字が書かれた食器も展示しています。奈良時代の難波宮を飾った瓦、中世~豊臣氏の時代(12~17世紀初め)の土器や陶磁器で、まだ発見されていない大坂本願寺の時代の資料もあります。豊臣氏~徳川氏の大坂城跡・城下町跡から出土した資料で、大坂夏ノ陣(1615年)で焼け落ちた瓦や壁土、 船場商人の経済力を伝える国内外の各地で焼かれた陶磁器、庶民の娯楽を彷彿とさせる土人形、将棋や囲碁の駒などがあります。豊臣期の大坂城を飾った金箔瓦(16世紀末~17世紀初頭)。金を好んだ秀吉を象徴する一品もあります。
《参考》阪南大学「大坂城惣堀の探査」
https://www.hannan-u.ac.jp/doctor/tourism/kitamura/fqpvga000000aulz.html
JR環状線の玉造駅から大阪市営地下鉄谷町線の谷町六丁目駅を経て、松屋町駅まで下る東西の道筋は、真っすぐ歩いて2kmあまり。ぶらりと半日を過ごせる格好の街歩きコースです。変哲もない街なかの道が観光コースになりえるのは、大坂城の歴史を知る人なら必ずご存知の「カラボリ」にそった道だからです。上町台地の北端に築かれた大坂城の守りを固めるため、豊臣秀吉は高さ20mの台地を断ち割り、四天王寺の方面から攻めよせる敵に備えました。それが惣堀(そうぼり)と呼ばれる大規模な堀です。水を貯めない堀であったため、空堀(からぼり)とも呼ばれます。惣堀は1614年に豊臣家と徳川家が熾烈な戦いを繰り広げた「大坂冬の陣」のあと、徳川軍に埋め立てられてしまいましたが、堀跡は今も地面のくぼみとなって残っています。限られた場所しか発掘調査が行われていませんので、決定的な堀跡の復原図がありませんが、それだけに、地面のくぼみをたどり、「ああでもない、こうでもない」と想像する楽しみがあるのです。とはいえ、地図もない人がいきなり現地を訪れても、たどる道がわかりません。そこでゼミの3回生15名が手分けして、東西に走るくぼみの北端・底・南端を2千5百分の1地形図に書き込み、「空堀探索マップ」を作成しました。もちろん、コースの周辺にある見どころも探り、さまざまな情報をマップに加えました。ぜひご活用ください。学生たちの報告もご覧いただければ、炎天下に調査をやり遂げた学生たちの努力が報われます。
大坂城南側の惣堀(空堀)については、調査がそれほど進んでいません。こたびの調査範囲で唯一遺跡が顔を見せたのは★「ひかりのくに」建設現場だけです(積山洋「豊臣氏大坂城惣堀の防御施設」『大阪の歴史』46号、大阪市史編纂所、1995年)。
【ひかりのくに】
543-0001大阪市天王寺区上本町3-2-14/06-6768-1151
http://www.hikarinokuni.co.jp/
1946(昭和21)年昭和出版株式会社創業。資本金12万5000円。月刊教育絵本『ひかりのくに』創刊。月刊雑誌『保育』創刊。
【大福寺】
543-0001大阪市天王寺区上本町4丁目1番15号/06-6761-0748
慶長年間(1596~1615)の創建と推測されるが、開山、開創時期などの詳細は不明。現在の銀山寺がかつて大福寺を称したが、太閤秀吉の命により改称・移転したあと、現在地にあった寺院を大福寺と称するようになったと伝える。大阪大空襲で山門を除く堂宇を焼失。本堂は現在、再建の過程にある。1869年(明治2)境内地に大阪大学医学部の前身★「大阪浪華仮病院」が創建された縁により、薬事関係の檀家が多く、「医薬の寺」の歴史を持つ。
★浪華仮病院跡
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009681.html
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000367.html
明治元年の布告によると、大阪に本格的な医学専門教育学校と病院建設を計画していた。学校については★「舎密局」が発足したが、病院は財政難で明治2年ようやく「大福寺」で仮病院として開業した。院長は緒方惟準(洪庵二男)、主席教授はオランダ人★ボードウィンで、医学教育にもあたった。ここにあったのはわずか3か月たらずであったが、これが大阪大学医学部へと発展する。
【ボードイン(Bauduin,Anthonius Franciscus)】1820~1885
1820年オランダのドルトレヒトに生まれ、グローニング医科大学を卒業し、陸軍医学校の教官をしていましたが、1862年(文久2)2月長崎に着き、ポンペのあとを受けて1866年(慶応2)まで長崎養生所で講義をしました。翌年一時帰国しましたが、1869年(明治2)頃に再来日し「大阪仮病院(大阪大学医学部の前身)」の開設に伴い抜擢され大阪の地を踏み、大阪仮病院と後から開設する大阪医学校病院で通算2年間、診療と講義を受け持ちました。陸軍創立者★大村益次郎が襲撃された際の主治医となり手術を行いました。大阪府知事・後藤象二郎に公立病院の開設を依頼された★緒方惟準(緒方洪庵の次男)は、ボードウィンの身の回りの世話を★薩摩屋半兵衛にまかせることにしました。半兵衛は、オランダ語の会話もできる商人でしたが、熱心な日蓮宗の信者で、「法性寺」の当時の住職日定の承諾を得て、ボードウィンは法性寺に居住することになりました。ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせることもありましたが、半兵衛の教化を受け、窮屈そうに膝を折り、南無妙法蓮華経のお題目を唱えるようになったといいます。帰国予定のところを、依頼により東京の大学東校で短期間講義をして1870年(明治3)末に離日しました。
・・・こんな見事なカエルのお墓にも出会え、元気もらいました。