街角ミュージアム(17) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・これまで大阪府内★43市町村(大阪市・堺・豊能5・三島5・北河内7・中河内3・泉北4・泉南8・南河内9)の郷土資料館を中心にミュージアムを訪問させていただきましたが、「大阪市」は大きく広いので★「大阪歴史博物館」だけで満足できるはずがありません。そんな時に見つけたのが大阪文化財研究所★「街角ミュージアム」だったのです。


ほうえ1


【難波宮内裏東方遺跡】

法円坂町から馬場町一帯が難波宮跡。難波宮内裏東方遺跡は、「アネックスパル法円坂」横にある。1952年より大阪市立大学教授山根徳太郎を中心に発掘調査、宮殿跡の存在が明らかになった。内裏、朝堂院跡を中心に史跡公園として整備が進められ、その公園の東側も1968年(昭和43)大阪市立大阪青少年センターの建設に先立つ発掘調査で、地下約1.5mから後期難波宮の建物や回廊などが見つかった

《アネックスパル法円坂》(旧称:大阪市立中央青年センター)

540-0006大阪市中央区法円坂1-1-35/06-6943-5021

http://www.zaidan.or.jp/index.html


ほうえ2


大阪市博物館協会大阪文化財研究所」】

アネックスパル法円坂6F/06-6943-6833

http://www.occpa.or.jp/index.shtml

街角ミュージアムとは大阪市内に点在する、小さな展示室のことです。発掘調査で出土した資料を出土した場所やその周辺で展示することで、歴史をより身近に感じてもらえると考えています。博物館とはひと味違った展示を是非見学に出かけて下さい。

http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M.html

【街角ミュージアム「アネックスパル法円坂」】

難波宮大極殿跡の少し東、難波宮域の真上の旧大阪市立中央青年センタ-にあり、敷地内の駐車場には難波宮東方官衙跡の柱列が現地に表示されています。1階のフロアには難波宮期の土器、重圏文軒瓦のほか、豊臣期大坂城の金箔瓦など付近の発掘調査で見つかった出土品を展示しています。大阪文化財研究所の本部事務所は建物の6階です。


ほうえ3


パル法円坂

540-0006大阪市中央区法円坂1-1-38/06-6943-1122

http://www.1122pal.ne.jp/


ほうえ4


国立病院機構大阪医療センター

540-0006大阪市中央区法円坂2-1-1406-6942-1331

http://www.onh.go.jp/mokuji/mokuji.html

旧大阪陸軍病院を前身として、1945年(昭和20)月に河内長野市(現在の大阪南医療センターの所在地)に開設され、12月に「国立大阪病院」として発足した。1947年(昭和22)月に大阪市東区(現:中央区)法円坂(現在地)に移転。1997年(平成月に厚生省から近畿の防災拠点病院の指定を受けたあと、東京都立川市の国立病院東京災害医療センター(現:国立病院機構災害医療センター)に対する西日本の災害医療センターに位置づけられた。2003年(平成15)月に国立療養所千石荘病院と統合し、「国立病院大阪医療センター」に改称。翌年月に厚生労働省から独立行政法人国立病院機構に移管され、現在の「独立行政法人国立病院機構大阪医療センター」に改称された。

遺跡調査について/平成27年10月大阪医療センター広報委員会

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000192796.html

駐車場だった区域は、これから約1年をかけて遺跡調査を行う予定です。大阪医療センターの東隣にある難波宮跡は、飛鳥時代と奈良時代の2つの大規模な宮殿跡です。飛鳥時代の宮殿は孝徳天皇により造営され、公地公民や元号制の開始などで知られる「大化の改新」がおこなわれました。新しい宮殿は奈良時代に聖武天皇により造営されたとされています。実は大阪医療センターの敷地も、飛鳥時代の建物と塀の跡が見つかり前期難波宮の一部であったと考えられています。今回の遺跡調査では遺物の発掘と同時に、遺跡を壊さずに新病院を建てる方法を調べます。


ほうえ5


《参考》稲田観音「観音禅寺」

577-0007東大阪市稲田本町3-27-12/06-6745-7778

http://www.kannonzenji.or.jp/index.html

觀音禪寺のある稲田村一帯は江戸時代中期から明治にかけて桃の産地として広く知られていました。花の盛りには近村はもとより大坂からも粋人墨客たちが川舟などを利用して集まってきて、川岸には茶店も出るにぎわいぶりであったと地誌は伝えています。この稲田桃は、普通の桃と少し違った種類で、種は紅色で先がとがり、果実は小型で非常に甘く、食用として、また災厄除けのお守りとして人気がありました。特産物として、近村だけでなく、天満の青物市場へ舟で出荷されていたということです。この名物の桃も明治18年の大洪水で水づかりのため大半が枯死、生産がふるわなくなりました。明治末、稲田桃の苗二十本がアメリカの農業試験場へ送られ、アメリカ種と交配。四、五年後日本に里帰りして、岡山での新品種、水蜜桃誕生に大いに役立ちました。その後農村不況や宅地開発などで、桃の木はすっかり姿を消してしまいました。戦後、稲田桃探しが始まりますが、幸いにも原種桃が農家に二株、そしてこの觀音禪寺境内に残っていたのです。東大阪市教育委員会では、これを市の天然記念物として登録、昔の桃畑の面影を後生に伝えようとしています。ちなみに千里(大阪府吹田市)の桃山台という地名はそこへ稲田桃を植えたことに由来するとか。

佐谷有吉》(18841957

明治17年8月6日京都府舞鶴に生まれ44年東京帝国大学医科大学を卒業皮膚学を専攻し京都府立医学専門学校教諭を経て欧米に留学大正15年大阪医科大学皮膚科泌尿器科教授に就任引き続き大阪帝国大学教授を経て昭和21年停年退官に至る間病院長医学部長微生物病研究所癩研究部長付属医学専門部主事等の要職につき医育研究診療に大いに寄与せられ次いで創設国立大阪病院に転ぜられ諸関係当局を動かして同病院を河内長野より現在地へ移転し厚生省所管最初の近代建築の基幹病院として今日の盛運の基礎を築かれたが図らずも昭和32年9月23日心筋梗塞症のため急逝享年73正三位勲一等に昇叙厚生省葬の礼をもって遇せらる法名常楽院殿典山治道有方大居士京都嵯峨宝寿院内に葬らる昭和35年3月10日建之知友門下生国立大阪病院有志題字撰文後継病院長布施信良制作行動美術協会々員建畠覚造。