・・・「鴻池家」の次は、「岩崎家」についてです。
《NEWS》2014.4.19産経WESTより
マンモスアパート/ここで「竜馬」が生まれた
大通りを折れて、細い道に入ると巨大な壁面を持つ建築物が見えてくる。無機質で、直線的なその壁面にはまるでオフィスビルのように無数の小窓が並ぶ。前時代的とも近未来的とも取れる不思議な雰囲気が建築物を包んでいる。大阪市西区北堀江。地下鉄西長堀駅近く、長堀通りから少し入ったところに、かつて「マンモスアパート」と呼ばれた「UR西長堀団地」が建つ。★「土佐藩邸」の敷地跡に建てられ、隣には江戸の記憶を今に留める★「土佐稲荷」が鎮座。作家、司馬遼太郎はこの団地に住み、大作★『竜馬がゆく』の執筆を開始した。
〈竜馬は、長堀川の川ぞいを西へむかって歩きだした。橋が、多い。心斎橋から勘定して、佐野屋橋、炭屋橋、吉野屋橋、宇和島橋、富田屋橋、問屋橋、白髪橋といった橋のたもとを八つ過ぎて九つ目の鰹座橋にくると、そこに土佐の大坂藩邸がある。脱藩人の竜馬にとっては、閻魔の庁のようなところだ〉(文春文庫刊『竜馬がゆく』第3巻)物語の中、脱藩した竜馬が吉田東洋の暗殺者としての嫌疑を掛けられ、岩崎弥太郎に藩邸に連行されるシーンで、司馬はこの界隈を短く記している。「マンモスアパートは土佐藩邸跡地にすぐ建てられたわけではないんですよ」。大阪市西区の郷土史を研究する水知悠之介さん(71)は話す。明治維新後、★「三菱財閥」が所有。一角に室戸台風で被害を受けた女学校が移転してきたが、戦後、同市立大家政学部として再び移転したその跡地に、日本住宅公団が建設したのだそうだ。昭和33年、東京・晴海の高層アパートと並ぶ初の都市型高層住宅として建設。11階建て、250戸以上。当時は大阪城や大阪湾までも見渡せたという。洋風の水洗便所、タイル張りのバスルーム、バルコニー・・・。最先端のアパートは、現在も整然と並ぶ小窓が高度成長期のモダニズムを感じさせる。
女優★森光子さんや野球解説者★野村克也さんらも住人だった。ここに司馬遼太郎が暮らしたのは、昭和34年から約5年間。水知さんは「当時は長堀川も埋め立てられておらず、鰹座橋も残っていた。幕末の名残がそこここに見られました」。おそらく『竜馬がゆく』の執筆に、界隈の風情を参考にしたことだろう。随筆集「司馬遼太郎が考えたこと第2巻」(新潮文庫)にはこう記されている。〈竜馬の取材のために高知から大阪の住まいへもどってくるときなど、ふと、私の主人公もまた、高知とこの大阪鰹座橋を往復したであろうことをおもって、こどもっぽい感慨をもつことがある〉隣接の「土佐稲荷」の桜をベランダから眺めたり、床の間まで古書の置き場になっていたり、マンモスアパートでの生活も登場する。自身のことを書くことを苦手とした司馬が日常生活を多く記すのは珍しいと司馬遼太郎記念館の上村洋行館長は指摘する。「司馬遼太郎として世に出て、作家としてやっていくという意気込みがあったのでしょう。本格的な作家活動はマンモスアパートから始まったといえます」司馬は★東大阪に書斎を構えた後も、しばらく西長堀を離れなかった。その理由をこう記している。〈このアパートは土佐藩の藩邸あとだから、その亡魂の群れが私をひきとめているのかしらと思っている〉(『司馬遼太郎が考えたこと』第2巻)築56年。西長堀団地は、老朽化などで約10年前から新規入居が停止されている。「独立行政法人都市再生機構」(UR都市機構)は改修か建て替えかを迫られていたが、今年度から改修工事が始まるという。司馬を世に送り出し、高度成長の夢を乗せたマンモスアパートは、これからも時代の証人として大阪の町に生き続ける。
【土佐稲荷神社(土佐公園)】
550-0014大阪市西区北堀江4-9-7/06-6531-2826
江戸時代、土佐藩の大阪蔵屋敷に隣接する長堀川(現在の長堀通)鰹座橋のほとりに神社が祀られていました。この神社に土佐藩第6代藩主、山内豊隆が、京都の伏見稲荷から稲荷大神を観請し、土佐稲荷神社としました。以来、土佐藩邸、蔵屋敷の守護神として崇められ、山内家は参勤の際には必ず立ち寄り参拝するようになりました。その後、郷社に列せられ広く「土佐稲荷」の呼称で親しまれるようになりました。
https://www.mitsubishi.com/mpac/j/monthly/tanbo/tanbo_19.html
明治2年、岩崎彌太郎が大阪商会(土佐藩開成館大阪出張所)の責任者として赴任。翌年には土佐藩の少参事、大阪藩邸の責任者となりました。当時の藩邸や蔵屋敷は、商人からの借入金の担保にとられた状況でした。明治政府の藩営事業禁止令に先立ち、私商社「九十九商会」が創立され、彌太郎がこれを監督することとなりました。彌太郎は事業と共に藩邸や蔵屋敷を譲り受け借入金も返済。土佐稲荷神社は土佐藩の守護神から商会の守護神として引き継がれました。その後、商会が「三菱商会」と名を変え、本社を東京に移して敷地を大阪市に譲渡した際も、彌太郎は土佐稲荷神社だけは手放すことはありませんでした。土佐稲荷神社には彌太郎の弟の岩崎彌之助が寄進した青銅の狛犬があり、その台座には彼の銘文が刻まれています。
・・・「土佐公園」の南に「大阪市立西高校」、そして東には「大阪市公文書館」「中央図書館」などがあり、歴史と文化の街角ミュージアムです。