街角ミュージアム(12) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「鴻池財閥」と「鴻池組」は当然つながりがあると思って、此花区伝法まで行ってみました。




《飛行船「スヌーピーJ号」》

http://www.metlife.co.jp/brand/blimp/

今日、世界では約20機の有人飛行船が飛んでいます。その中で日本を飛んでいるのは「スヌーピーJ号」1機のみです。(2014年7月現在)飛行船のパイロットは専門の資格が必要です。今日活躍している飛行船のパイロットは宇宙飛行士よりも少ないのです。パイロットを含めて15名程度のクルーが離着陸をサポートしています。地上のクルーは整備も行います。飛行船の係留には広大で平坦な空き地が必要となります。また、係留地の周りは電線が少ないことも条件になります。



・・・目的地に向けてトコトコ、「飛行船」を発見して興奮しました。


ひこう1


旧鴻池本店・本宅設計:久保田小三郎

554-0002大阪市此花区伝法4-3-6106-6461-0262鴻池組技術研究所

http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000162532.html

伝法町★「澪標住吉神社」の道をはさんで、「旧鴻池本店・本宅」が建っています。いずれも1910年(明治43)の竣工です。残念ながら内部は公開されていません。この鴻池家は雲州富田城尼子氏の旧臣山中鹿之助(幸盛)の次男新六を始祖とする、鴻池善右衛門一族の「鴻池財閥」とは★関係ないようです。この鴻池家が伝法に居を構えたのは17世紀頃といわれ、「六軒屋」という屋号で大阪の人々に親しまれてきたそうです。大阪のゼネコン「鴻池組」の前身で、1871年(明治4)鴻池忠治郎が父・鴻池藤七の廻船問屋を引き継ぐとともに、土木や建築の事業場や製造業などへ人員を供与する、いわゆる労務供給業を開始。1880年(明治13)伝法の地で仲間業および運輸業を開始。1898年(明治31)頃から内務省・三池貞一郎主任技師らの要請により淀川改良工事に従事、淀川の大洪水に対して被害地の復旧に全力を尽くしてきた。1918年(大正7)株式会社「鴻池組」設立。1945年(昭和20)運輸部門「鴻池運輸株式会社」を分離し、建設専業として現在に至っている。1968年(昭和43)本社・本店社屋★「鴻池ビル」が完成するまで、ここが本店として使われていた。内部には彫刻家・高村光雲の弟子「相楽雲楽」によるアール・ヌーボー調内装が施されている。


ひこう2


鴻池組

541-0057大阪市中央区北久宝寺町3-6-1(本町南ガーデンシティ)06-6245-6500

http://www.konoike.co.jp/

鴻池組は2013年月、大阪市中央区の本町南ガーデンシティに本社移転した。同物件は鴻池組の旧本社跡地に立つ賃貸オフィスビル。御堂筋に面した土地3678m2は、2006年に積水ハウスが300億円台で鴻池組から取得。鴻池組・大林組JVの施工で2011年に竣工した。

NEWS2015.11.20日本経済新聞より

積水ハウス、鴻池組を傘下に親会社に3割出資

積水ハウスは2015年11月19日、中堅ゼネコンの鴻池組を子会社に持つ鳳ホールディングス(大阪市)と資本提携すると発表した。2016年1月に鳳HDの株式の3割を取得して持ち分法適用会社にする。鴻池組はオフィスビルや文化施設の施工に実績を持つ。これまで外注していた大型マンションなどの工事を鴻池組に発注し、都市開発などをグループで一貫して手掛けられる体制にする。三井住友銀行が持つ鳳HDの優先株の一部を取得後に普通株に転換し、鳳HDの33.3%の株式を来年1月27日付で取得する。これとは別に同日付で鳳HDの優先株も引き受ける方針で、一連の取得額は数十億円とみられる。19年をめどに普通株に転換するかどうかを決める。普通株に転換した場合は積水ハウスの出資比率は最大で約45%になる見込み。積水ハウスが建設会社を傘下に収めるのは初めて。


ひこう4


澪標住吉神社

554-0002大阪市此花区伝法3丁目1-606-6461-0775

http://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001451.html

社名は、浪速津の川口に建てられた澪標に因る。浪華八十島の1つで、804年(延暦23年)遣唐使の一行がこの島の景勝に感じて、航海の安泰を祈願するために島の一角に住吉四柱神を奉祀。島民が祭壇跡に祠を建立して帰路の印に澪標を建てたという。


ひこう5


鴉之宮

554-0002大阪市此花区伝法2-10

http://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001454.html

1215年(建保)海運に従事していた人たちが、港の繁栄を願い土地の鎮守神として伝母頭神社を創建したのがはじまりという。秀吉が出兵の際に本足の鴉が先導、海路平安であったところから鴉之宮と改められたと伝えられる。