2014年11月《中村家住宅/国登録有形文化財指定記念講演会》より
岩清水八幡宮・安居橋の袂「中村邸」大歌堂において、国登録有形文化財指定を記念した講演会が開催されました。
講演Ⅰ「大広間の絵画(渡邊祥英作)の解説と鑑賞」
/講師:摂南大学・岩間香教授
講演Ⅱ「中村家住宅の今日までの保存修理・補修経過報告」
/講師:中村恵子(中村家住宅当主)
講演Ⅱ「中村家住宅の建築的特徴と最近の保存修理工事報告」
/講師:(株)KOGA建築設計室・古賀芳智室長
★中村家大広間の「絵画」作:渡邊祥英について(岩間香教授)
渡邊祥英の画系は、大正13年版の「現代書画家名鑑」によれば、渡邊熊治郎52歳・大阪東区内淡路町二丁目、渡邊祥益円山派と書かれています。昭和9年の「大日本書画名家大鑑」によれば、夏目梁祐-渡邊梁益-渡邊祥益そして「渡邊祥英・上島鳳山・小出楢重」
という画系になります。祥英は父祥益に、円山派から派生した四条派を学ぶ、とも書かれています。祥英の作品は、一般の美術館にはないのですが、祥益の作品はネット上にいくつか紹介されています。また、同門の兄弟弟子にあたる日本画家★上島鳳山や西洋画に転向した★小出楢重の作品は高い評価を受けています。
・・・祥英さんと小出楢重さんが同門だったとは知らなかったなあ。
・・・さて、「落語」にまつわるお噺を一席。
《NEWS》上方落語復興・最後の四天王「桂春団治」毎日新聞より
http://www1.plala.or.jp/koharudanji/site.top/toratoyana.top.htm
戦後、滅亡寸前と言われた上方落語界の復興に尽くした四天王(三代目桂米朝、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝いずれも故人)とほぼ同時期の入門で、衰退していた上方落語界再生の原動力として活躍した。厳しいまでに磨き上げた芸風で知られる三代目桂春団治(本名・河合一)さんが2016年1月9日、心不全のため亡くなった。85歳だった。芸風は地味だが手堅く、上方落語のエッセンスを観客に見せるよう心掛けた。テレビやラジオにはほとんど出演せず落語一筋。粒よりのネタを完璧に演ずることに全力を傾け、「野崎詣り」「いかけや」「代書」などは至芸と言われた。若手の育成にも熱心で、福団治さんや故二代目春蝶、小春団治さんらを育てた。78年から83年には三代目の上方落語協会会長を務めた。81年に胃潰瘍、92年にはC型肝炎と診断されるなど、何度か病気に見舞われながらその度に克服。年齢とともに円熟を重ね、艶のある芸で観客を酔わせた。足のけがで正座できなくなったことなどを理由に、2013年夏以降は高座から遠ざかっていたが、弟子の襲名披露の際などには公に姿を見せることもあった。75年芸術祭優秀賞、78年上方お笑い大賞、98年には紫綬褒章を受章した。
・・・「法善寺横丁」の看板は三代目春団治さん、もう一つの看板は初代春団治さんを演じた「藤山寛美」さんの筆によるものです。みんな深い縁(演、円)でつながっていますねえ。
【船場今橋「大美落語会」旧鴻池邸で船場噺を聴く会】
http://chikurin13.web.fc2.com/index.html
日本一の資産家として知られる鴻池家ですから、落語にも登場しています。中でも「鴻池の犬」は、ある商家から鴻池家へともらわれ、時を経て地元の顔役になった犬のクロのところへ痩せこけた不良犬が迷い込み、実は生き別れになった弟だったという人「犬情」噺。また、水が漏るただの湯飲み茶碗が千両に化けた噺「はてなの茶碗」にも、鴻池の主が登場します。その旧鴻池邸の一室で、2008年頃から落語会が開かれるようになりました。主宰の笑福亭竹林さんが、落語に造詣の深い古美術商の勧めで、年4回ほど落語会をやるようになったそうです。
【落語「鴻池の犬」】
商家の軒先に捨て犬があった。丁稚が黒、白、ぶちの3匹を世話するなか、通りすがりの男から黒犬を欲しいという申し出がある。日を改めて吉日に来たその男が持参したのは、鰹節、酒、反物の数々。これを犬には不相応として断る主人。しかし男曰く、自分は★鴻池善右衛門の使いであり、そこで飼っていた黒犬が死んで以来、かわいがっていた子どもが気落ちしており、そのため見つけたこの黒犬がぜひとも欲しいと言う。いわば養子にもらうための贈り物、という経緯に主人も納得し、豪華な輿に乗せられもらわれて行く黒犬。鴻池宅では医者3人が付き、広い敷地に豪勢な餌で大きく育った黒犬は、やがて「鴻池の大将」として近所のボス犬となる。ボスとして犬同士のケンカの仲裁などをする日々のなか、近辺で見慣れない痩せ細った犬が、地回りの犬にいじめられ、追われて鴻池宅前まで逃げて来る。追っ手の犬達を諭しながら、事情を聞く黒犬。痩せ犬の生い立ちを聞けば、3匹の兄弟で捨てられていたが、船場、南本町の池田屋で拾われて育ち、兄弟のうち黒犬はもらわれ、白犬は死に別れたとのこと。そこで黒犬と痩せ犬は生き別れた兄弟であることが判明、黒犬が面倒を見ることになる。「来い来い来い・・・」の声がする方へ、黒犬が行って戻ると、鯛の焼き物、う巻きなどをもらってくる。再び「来い来い来い・・・」の声があるが、今度はしょんぼりして戻って来る。弟が尋ねると、黒犬が「ぼんに『しー来い来い来い』言うて、おしっこさしてたんや」。
「鴻池の犬」の原話は、★「聞上手」中の「犬のとくゐ」です。この原話は江戸のものですが、落語としては上方で、「鴻池の犬」として磨かれました。東京には、明治30年ごろ、初代三遊亭円左師が持ち込みました。のちに三代目三遊亭円馬が「大どこの犬」と改題して東京風に演じ直し、鴻池を岩崎、犬が最初に拾われる場所を、大坂南本町から江戸日本橋石町と変えました。その後、八代目正蔵師が「おおどこの犬」として高座に掛けていました。現在でも結構高座に掛けられています。
《小松屋百亀》(1720~1794)
師系は不詳。独学で学んだかと思われる。姓は小松、通称は三右衛門。小松軒、不知足山人と号し、剃髪してのち百亀と号す。江戸の元飯田町で薬種商を営み、便秘薬「文武丸」を売り出したりしている。この「文武丸」は、狂歌師の大田南畝が服用していたこともあるといわれる。百亀は京都の西川祐信に私淑しており、祐信の絵本や春画を収集し、自らも春画を描いて出版した。主要な作品として風俗本『艶道俗説辨』(刊行年不明)や、艶本『古今枕大全』(明和年間)などがあげられる。1765年(明和2)鈴木春信らとともに、錦絵の誕生に多大な貢献をしている。その後1773年(安永2)咄本★『聞上手』を執筆刊行したことによって、小咄の大流行の基礎を作った。他に絵暦の版下絵などを描いており、その画風は西川祐信に似ており、さらに鈴木春信風をも示している。享年74。墓所は文京区向丘の大円寺。
・・・「落語」と「浮世絵」がつながるなんて、本当におもしろい噺です。