街角ミュージアム(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「太融寺」も「街角ミュージアム」です。

太融寺の展示コ-ナ-

http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M02.html

弘仁12年(821)に弘法大師により創建されたとされる太融寺には淀殿の墓や自由民権運動の舞台となったことを顕彰する近代日本政党政治発祥地の碑などがあります。一帯は古代寺院の「安曇寺跡推定地」であり、発掘調査では平安時代の遺構・遺物は見つかりませんでしたが、土師器、瓦器、土錘といった遺物のほか、ゴミ穴、貝塚など鎌倉時代の生活の跡が見つかりました。また中国製の磁器類、墨書土器、瓦質の火鉢など寺院を中心とする集落のあったことを窺わせる貴重な資料が出土しています。


たゆし1


淀殿の墓

1615年(元和元)5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外弁天島に一祠を作って埋められた。これが淀姫神社である。明治1011月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることとなり、豊臣に縁の深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。


たゆし2


近代日本政党政治発祥の地

明治11年板垣退助をはじめ、全国の有志が大阪に集り民権運動を起こし、全国的規模にまで展開した。この運動は愛国社(後の自由党)となり、明治13年3月17日第4回愛国社大会、明治171029日自由党解党大会が当寺で開かれた。第4回大会で国会期成同盟会が結成され、河野広中が会長となり国会開設請願書を作成、会長名で明治天皇に奉呈したのである。明治1410月2日国会開設約定の詔勅が出され、遂に明治231125日国会が開かれた。当寺は、近代日本政党政治発祥の地である。

・・・「太融寺から北上し、網敷天」三社を巡ります。


たゆし3


綱敷天神社

530-0026大阪市北区神山町9-11/06-6361-2887

http://tunashiki.com/

今から1200年ほど昔の822年(弘仁13)に、第52代天皇であらされた嵯峨天皇が当地に御行幸あそばされ、現在の御本社の位置に仮の御殿を構え一宿された事に由来する神社です。嵯峨天皇崩御の後に、皇子、源融(光源氏のモデルとも伝えられる)公が、御追悼の為、843年(承和10)、嵯峨天皇をお祀りする社殿を当地に創建し、天皇の御名をとって「神野太神宮」と称されました。後の901年(延喜元)に、学問の神様として慕われる「天神さま」こと菅原道眞公が、無実の罪により京都より太宰府までの左遷の際に、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられ一時の休息を得られました。その由縁より、「綱敷(つなしき)」の名が興りました。


たゆし4


【末社・歯神社】530-0017大阪市北区角田町2-8

http://www.hagamisan.com/

歯神社の主祭神は、歯神大神さまと申し、歯、全般の神さまとして信仰されております。歯神社は元々、この地にあった巨石に神さまが宿っておられると信仰した地元の人々によってお祀りされた事に由来し、のちにその神さまはお稲荷さんとしてお祀りされるようになりました。ですので中世の頃の歯神社は皆さんの街にもあるお稲荷さんと同じでした。ところがご由緒にもありますように、後に梅田一帯をも水没するかに思えた淀川の氾濫を、このお社の御神体であった巨石が歯止めしたことから、「歯止めの神さま」として慕われ、いつの頃からか歯止めの語呂が通じて「歯痛止め」、「歯の神さま」として歯に悩む方、歯に関わる方の神さまとして知られるようになり、また池田街道などの街道筋近くにあった事から、遠近にも知られるようになりました。その頃の話として伝わるものの中には、「歯の苦しみが和らいだ」、「子供に良い歯並びの成人歯が生えました」、「良い歯医者さんに巡り会えた」など、歯の神さまとして篤く信仰されていた事が伺えます。明治時代に入って、それまで地元の人々の間でお祀りされていた歯神社を、正式な神社にしたいという思いを受けて、当・綱敷天神社の末社に加え、いつしか「歯神さん」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。


たゆし5


綱敷天神社御旅社

530-0013大阪市北区茶屋町12-5/06-6371-1586

http://tunashiki.com/

「御旅社」といいますのは、神様の別荘のようなもので、大阪市北区神山町に御鎮座されます綱敷天神社御本社の神様が夏の渡御祭の際に、地元梅田の町が平穏であるかどうかご覧になられ、その時にお休みになられる為のお社が御旅社です。この御旅社は元々御本社の南にあり、古くには「梅塚天神」とも称され、菅原道眞公がご覧になられた紅梅がありましたが、明治の初年頃にこの梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいと土地の寄進があり、現在の地に鎮座致しました。故に臨時で設けられる普通の御旅所とは異なり、常に御祭神が鎮座まします御旅所という事で、当神社では正式には「御旅社」と申します。現在の社殿は昭和59年に旧社殿の老朽化と、梅田の地を幾度も襲った淀川の洪水から御神体をお守りするために立て直されたもので、今も昔も変わらず、梅田の街を行き交う人々を見守られておられます。