・・・これから「佐伯祐三」さんのお墓参りに行くわけですが、どうせなら街道巡り(中国街道・能勢街道)を楽しみながら「光徳寺」に向かいたいと思います。
《中国街道・山田街道・能勢街道》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000008740.html
淀川改修以前には、中津川南岸(左岸)で福島付近を起点とする「山田街道」と、★高麗橋から出た「中国街道」とが合流して、十三渡(後、十三大橋)を経て、現在の淀川区役所西側へ通じていた。「中国街道」はそこから西北へ、神崎橋付近から尼崎、下関へ。「山田街道」は反対に東北へ、神津神社の東側を通り、阪急電車沿いに北へ吹田市山田に通じていた。一方、「能勢街道」は中津川にかかる新橋を渡り、そのまま西北に進み木川町商店街で「山田街道」に合流、京都府亀岡市に至っていた。神津神社東側(山田街道)や、淀川通りを南東に渡った木川西一丁目付近(能勢街道)は、昔の街道筋の面影を残しており、顕彰されている。能勢街道は大坂と能勢地方を結ぶ街道で、炭・薪・栗・柿・木材・銅・銀が能勢から、池田からは酒・植木が運ばれた。大坂からは衣類・干物・魚・塩が池田を経由して運ばれた物流の道である。中国街道と中津1丁目「大淀署」を過ぎたところ(西成郡中津村大字下三番)で分岐するので起点は「中津」とされる。
※「大淀警察署」531-0071大阪市北区中津1-5-25/06-6376-1234
【高麗橋】
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022255.html
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、1604年(慶長9)には擬宝珠をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。1870年(明治3)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。
・・・ここから橋を渡って、中国街道を西に向かって歩きます。
・・・少し進んで右折すると、「旧鴻池家本宅跡」があります。今は「大阪美術倶楽部」になっています。さらに北上したところに「旧難波橋」がありましたが、現在の橋は少し東側に架け替えられました。
【難波橋】
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000023795.html
難波橋が公儀橋となったのは天神橋と同じく、1661年(寛文元)のことといわれている。古くは中之島の先端が、難波橋の下流部にあったから橋は一本で架かっていた。この付近は絶好の行楽地で、夕涼み、舟遊び、花火見物などの人々でたいそう賑やかであった。難波橋が鉄橋になったのは明治9年であるとされるが、橋の架替えに合わせて中之島の先端が上流の方へ延長されたことにより、橋は南北に分けられ、この北側部分のみが鉄橋になったようである。難波橋が今のような立派な姿になったのは、市電事業によってである。以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていたが、市電の第三期線として計画された堺筋線に移された。橋本体は鋼製2ヒンジアーチで、中之島公園と一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされている。橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ2体の石造のライオン像が配されていることから『ライオン橋』の愛称で市民に親しまれている。その後、橋本体の傷みがはげしく、架替えられたが、装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている。
・・・難波橋を渡って左折、西天満小学校横を通って、国道1号線に出たところを迂回して交差点を渡り「寺町通」を北上。斜め左へ進んでいくと「太融寺」に突き当たります。
【太融寺】
530-0051大阪市北区太融寺町3-7/06-6311-5480
http://taiyuji1.web.fc2.com/index.html
http://www.evam.ne.jp/taiyuji/index.html
当寺は821年(弘仁12)にこの地に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により、創建されました。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融公が、この地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立され、浪華の名刹として参詣者でにぎわいました。当時を偲ぶ境内地の名称は今に伝えて、太融寺町、堂山町、神山町、扇町公園、野崎町、兎我野町等として残って居ります。1615年(元和元)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼しましたが、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興して、“北野の太融寺”と市民に親しまれ大いに栄えました。1945年(昭和20)6月戦災で堂塔伽藍一切が灰燼に帰しましたが、ご本尊千手観世音菩薩は無事難をまぬがれました。戦後再建に着手、本堂、大師堂、不動堂、宝塔、客殿、本坊、庫裡、鐘楼、東・西・南・北門、御供所20余棟が復興しました。