・・・「東町奉行所跡」の次は「偕行社」の痕跡を求めて「追手門学院」へ。
【偕行社】
戦前、帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された。戦後は旧陸軍の元将校・将校生徒(陸軍将校養成過程にあった者、すなわち士官候補生(主に士官学校本科・航空士官学校生徒)・予科士官学校生徒・各幼年学校生徒など)・軍属高等官(将校待遇の陸軍軍属たる文官)および、陸上自衛隊の元幹部自衛官といったOB・OGの親睦・互助・学術研究組織として、会名をそのままに「偕行社」として運用されている。
【追手門学院小学校】
540-0008大阪市中央区大手前1-3-20/06-6942-2231
http://www.otemon-e.ed.jp/introduction/p120/index.html
「大阪偕行社附属小学校」は、高島鞆之助(1844~1916)が「国家有為の人材の育成」をめざして設立した。薩摩藩出身の陸軍軍人であり、後には陸軍大臣・拓殖務大臣となった政治家である。官位は陸軍中将正二位勲一等子爵で、枢密院顧問官等を歴任した。高島鞆之助中将、今井兼利少将(大阪偕行社幹事長・第七旅団長)等の主唱の下、大阪偕行社の社員と在阪の財界人の支援を得て大阪偕行社附属小学校は設立された。学校設立趣旨での教育方針として、「専ら児童身体を鍛錬し、忠君愛国の精神を涵養し、質実剛健の志操及び独立自彊の心性の陶冶」を掲げた。この学校設立の趣旨こそ、建学の本旨と教育の理念を示すものである。また国際教育を重視し、開設当初より英語授業を実施したことは、明治期の小学校としては特筆される。
《追手門学院・大阪城スクエア》(追手門学院大手前中・高等学校本館6階)
540-0008大阪市中央区大手前1-3-20/06-6942-2788
http://www.otemon-osakajo.jp/index.html
追手門学院創立120周年を記念し、学院関係者や企業の皆様からの寄付金を中心に設立した総合文化施設です。当施設は、教育・行政・司法・メディア関係をはじめ、各種機能の集積する上町台地にあり、利便性に優れています。大阪城天守閣を望むこの場所を拠点に、学校法人追手門学院の人的・知的資源と社会との相互作用を促進し、新しい文化と知を創造することを目的としています。
《追手門学院小学校の石垣》
https://www.otemon-e.ed.jp/introduction/environment.html
本校の敷地は、歴史的にも重要な場所です。1596年に豊臣秀吉が築いた三の丸石垣が、1984年(昭和59)本校東館建設時の文化財発掘調査により、発見されました。1614年大阪冬の陣での講和条件に基づき、地中深くに埋められたものです。400年の時を経て、豊臣秀吉の思いがこの地でよみがえりました。本校東門横に移設、復元しておりますので、お立ち寄りの際には是非ご覧ください。なお、小学校の地下にも発掘されたままの状態で石垣が保存されています。
【ドーンセンター】大阪府立男女共同参画・青少年センター
540-0008大阪市中央区大手前1-3-49/06-6910-8500
http://www.dawncenter.or.jp/top/index.jsp
「大阪軍人會館」は昭和帝の御即位記念事業として第四師管下在郷軍人の協力により在郷軍人の心身鍛練、及び一般人の研修場として起工:1936年(昭和11)5月1日、竣工:1937年(昭和12)6月30日。昭和60(1985)年頃に老朽化のため取り壊されました。その跡地に、男女共同参画社会の実現に寄与することを目的として、大阪府が主体となり、1994年(平成6)4月1日に大阪府立女性総合センターが設立され、2009年(平成17)4月1日に現在の名称になりました。
《大阪ドーンセンターの石垣》
1989年(平成元)ドーンセンター建設の際、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる1598年(慶長3)に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて、大坂城の防御力強化のために築かれた「三の丸」のものです。敷地内の地下約2mの位置から東西約21mが発掘調査の後、あいだに詰められた小石に至るまで細心の注意を払ってこの地に復元されたそうです。現存の高さは最大で3.3m。上部は破壊されており、前面に転がっていた石垣石から推定すると高さは約5m。冬の陣講和後の徳川方による大坂城の外郭破壊がいかに徹底したものだったかを物語っています。
《日本経済新聞社の石垣》
日本経済新聞社(裏口)にも石垣遺構が保存されている。これは徳川幕府による大阪城再建時のものです。1620年(元和元)大阪城再築の第一期工事で作られたもので、惣構堀に見立てられた旧大和川護岸石垣の一部。日経新社屋の建設工事時に発見され、発掘調査の後、現在の場所に移転、保存されています。
【大阪府立大手前高等学校】
540-0008大阪市中央区大手前2-1-11/06-6941-0051
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/ootemae.html
昭和61年と63年に校舎の建替えに伴って実施しています。地下約3メートルもの深いところから、豊臣時代の建物跡、井戸跡や道路跡などの町並みとたくさんの土坑が発見されました。昭和61年の調査では、板と杭で作られた排水溝で方形に区画された「宅地」が6か所確認されました。それぞれの「宅地」の中には扁平な河原石を礎石と配されています。比較的簡素な建物が多いようです。井戸は1基しか確認できなかったので、共同で使用していたのかもしれません。道路跡は2間幅で作られています。この時代の1間は太閤検地に見られる6尺3寸(約191センチメートル)を使用しています。道路の両脇には半間幅の側溝が設けられていて、護岸は板と杭で補強されています。また「宅地」から丸瓦を組み合わせた下水管が道路の側溝に流れ込むようになっています。雨水排水も考慮した「町作り」の様子がうかがえます。
《大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書》
大阪市中央区大手前および法円坂の一帯は、東には大阪平野、西に大阪湾を望む上町台地の北端にあたります。当地は『難波の堀江』に比定される大川からも近く、古くより水上交通の拠点として瀬戸内海を通じて広く大陸ともつながっていました。周辺の遺跡を概観すると、縄文時代では学史的にも有名な森の宮遺跡をはじめとし、古代では難波宮、さらに中世以降では大坂本願寺および豊臣・徳川両氏の大坂城などがあり、各時代を通して歴史上きわめて重要な位置を占めてきた地域であるといえます。平成10・11年度に実施した大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う大坂城跡発掘調査では、北半から見つかった谷の中から、難波地域では初めてまとまった形で木簡が出土するという思いがけない発見がありました。出土した木簡の中には孝徳朝の年西暦648年の紀年銘木簡が含まれており、前期難波宮の研究に一石を投じる重要な歴史資料となりました。