・・・「釣鐘屋敷跡」から東へ行くと「東町奉行所跡」があります。「奉行所」について詳しく調べることにします。
1600年(慶長5)関が原の戦い
1603年(慶長8)江戸幕府開府
1614年(慶長19)大阪冬の陣
1615年(★元和元)大阪夏の陣
【元和】
改元直前の1615年(元和元)4月に大坂夏の陣が始まり、5月8日に大坂城が落城、豊臣氏は滅亡した。以後、泰平が続くが、これを「元和偃武」という。後水尾天皇の代(1615~1624)の元号で、徳川家康の意向により採用された。元和年間の江戸幕府の将軍は徳川秀忠(2代)、徳川家光(3代)。同年7月、江戸幕府は「武家諸法度」とともに「禁中並公家諸法度」を制定して朝廷に介入し、改元ならびに元号に関する規定も盛り込んだ。これ以降、明治維新まで改元や元号制定は朝廷が提案し、幕府の認可を受けて行われるようになる。
【大坂町奉行】1619年(元和5)~1867年(慶応3)
江戸幕府が大坂に設置した「遠国奉行」、江戸以外の幕府直轄領(天領)のうち重要な場所に置かれました。東西の奉行所が設置され、江戸
町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの★月番制をとっていました。初名は大坂郡代。老中支配下で大坂三郷及び摂津・河内国の支配を目的としていた。奉行所は元々★東西ともに大坂城北西の出入口である「京橋口」の門外に設置されていましたが、1724年(享保9)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、「東町奉行所」は京橋口に再建され、「西町奉行所」は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転されました。
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000002159.html
大坂では東町・西町奉行所に各30騎の与力が配置されていました。江戸のように寺社奉行、火付盗賊改方の役がなく、町奉行所が一手に引き受けていました。盗賊方の与力が6人、定町廻の与力が4人いました。与力・同心の役宅は、東町奉行所の北方、淀川の天満橋を渡って1キロほどのところにあり、彼らは「天満与力」「天満同心」と呼ばれました。
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000002156.html
・・・現在も、大阪市北区同心・与力町という地名が残されています。
【大坂東町奉行所掛図】画:藤原中正(掛図1枚)一橋大学付属図書館
「平成14年度企画展示(WEB版)武家社会と江戸・大坂の経済―幸田成友とその史料―2002.11.1~11.15」
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k14/tenjihin_list.html
大坂町奉行所は、地方・川方・寺社方に関する件、廻米、消防、警察、訴訟等の町政全般に責任を負っていた。東西に分かれ、2名が定員で1ヶ月交代の月番制をとっていたが、1867年(慶応3)7月に東西両奉行所を合わせて東町奉行所一箇所となっている(幸田成友「徳川時代の大阪市制」 『著作集』1所収)。本資料も一色直温旧蔵史料の一つである。
【大坂東町奉行所図】(『大阪市史附図』より)
http://homepage3.nifty.com/oshio-revolt-museum/bugyosho-map.htm
東西両町奉行所は相接して天満橋南詰東にあり、地方役手鑑に東町奉行所三千弐百弐拾坪、西町奉行所弐千三百拾五坪とあるは、元禄年間の調査とす、享保九年三月大火あり、両町奉行所類焼せしかば、一時難波別院に移り、次いで東町奉行所 ○弐千九百六拾五坪 を旧地に、西町奉行所 ○弐千九百三坪七合五勺 を東横川東岸塩噌舂屋の跡に新築し、以て幕末に至る、本図は旧東組与力関根一卿氏同由比喜勝氏が記憶によりて起稿せられたるものを対照し、異同は之を関根氏に問ひ、同氏は更に旧東組同心三宅栄観氏に質し、稿を改むること二回なり、之を幸田氏が頃日東京に於て得たる東町奉行所図 ○町奉行一色山城守直温旧蔵本 と比較するに、関根氏等が平素出入せざりし奉行住宅向に至りては、彼此精粗異同ありと雖も、銅版彫刻既に成れるを以て、今回は関根氏起稿の儘を印刷に附したり。
【大坂西町奉行所図】(神戸市立博物館蔵)
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/121-1.html
この文書群は二度にわたって大坂町奉行を勤めたほか、新潟奉行や堺奉行、長崎奉行など江戸幕府の要職を歴任した川村就修が役目を通じて収集したもの。川村家は8代将軍徳川吉宗が創設した将軍直属の隠密・御庭番の家筋で、幕末には海防政策にも深く関与している。最初の大坂町奉行在任時の1854年には、ロシア艦船による大阪湾侵入事件が起こっており、その関連資料も少なくない。なかでも奉行所の下で治安維持や諜報活動に従事した大坂の非人組織のトップである長吏★善次郎が作成した、この事件に関する風聞書が含まれている点は、大坂町奉行の政治的機能を考える上で興味深い。1854年★川村修就は西町奉行に就任しており、その頃に作成・入手されたものであろう。
【歴代西町奉行】
嶋田越前守直時・曾我丹波守古祐・曾我又左衛門近祐・彦坂壱岐守重紹・嶋田越中守重頼・藤堂伊勢守良直・勢出雲守頼寛・加藤大和守泰堅・永見甲斐守重直・松野河内守助義・大久保大隅守忠香・北条安房守氏英・松平日向守勘敬・佐々美濃守成意・久松筑後守定郷~(中略)~堀伊賀守利堅・阿部遠江守正蔵・久須美佐渡守祐明・永井能登守尚徳・中野石見守長風・本多加賀守安英・石谷因幡守穆清(嘉永5.5.19~安政1.5.20)
★川村対馬守修就(安政1.5.20~安政2.5.1)1854~1855
《参考》
嘉永7年11月27日:内裏炎上、地震、黒船来航などの災異のため「安政」に改元
久須美佐渡守祐雋・鳥居越前守忠善・松平大隅守信敏・平岡和泉守準・小笠原伊勢守長功(慶応3.1.29~明治1.2.23)
【若宮稲荷神社】
http://www.osaka.cci.or.jp/wakasj/index.html
「若宮稲荷神社」は、1583年(天正11)豊臣秀吉が大坂城築城にあたって奉祀し、加護を祈願したのが始まりとされています。また、江戸時代にはこの地に「西町奉行所」が設けられ、同神社は一般庶民にも広く崇敬されるようになり、明治27(1894)年には★府立大阪博物場の鎮守神として永世奉祀されることになりました。
《若宮稲荷社重修記(記念碑)》
神社境内の灯籠横には、「若宮稲荷神社」の縁起を記す「若宮稲荷社重修記」があり、1937(昭和12)年4月、大阪府知事名で趣旨の文言が記されています。
《狛犬》「若宮稲荷神社」の時代からこの地にあり、地域を見守ってきた狛犬です。一般に神社の狛犬は、角のない獅子像と角のある狛犬像とで一対になっていますが、当神社には両方とも獅子型の像が配置されています。向かって左側の狛犬は、子供の狛犬を抱く珍しいもので、「若宮稲荷神社」が安産祈願、家内繁栄の対象でもあったことを伺わせています。