・・・「博物場」にも設置されていたという不思議な「釣鐘」について、
【大坂町中時報鐘】
540-0035大阪市中央区釣鐘町2-2-11住友生命釣鐘倶楽部/06-6941-9608
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009652.html
1634(寛永11)年、徳川三代将軍・家光が京都に上洛した際、大坂城にも訪れました。大坂三郷の惣年寄らが盛大に出迎えて、3樽の鰹節を献上すると、城中に召されたうえ、大坂町中の地子銀を永久に免除すると言われたそうです。地子銀とは今で言う固定資産税のようなもののことです。当時は「八つ取り」といって、石高の十分の八という高率の税金でした(三郷の地子銀は1ヶ年178貫934匁)。当時の家光は人気が低迷していたため、上洛する途中の土地土地で税金免除を行って人気回復を図っていました。大坂の人々はこれを大変喜び、「永くこの恩を忘れないように、時を告げる鐘を造ろう」ということになったのだそうです。鐘は同年9月に完成(鋳造:天満裏門・鋳物師釜屋宗左衛門)。鐘には家光より下賜された銀80貫目が鋳込まれていると伝わっています。その銘文は谷町筋寺町西側(現谷町9丁目)の大仙寺の龍巌和尚が書き、開眼供養は一心寺の在牟上人が導師となって執り行われました。この釣鐘屋敷の鐘は2時間おきの1日12回撞かれたそうです。その鐘の音は、近松門左衛門『曽根崎心中』最後の道行場面でも書かれています。江戸時代には4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に遭っていますが、幸いなことに鐘は無事でした。もともとは今の場所より★東に50mから100mの所にあったとされています。
【大阪歴史博物館・館蔵資料集8「浪華勝概帖」大江阪鳧鐘】
江戸時代末期の幕臣・竹垣直道(1805~1869)が、大坂代官所勤務時代に絵師に描かせた肉筆画集。現在、大阪歴史博物館に所蔵されている『浪華勝概帖』は全2冊、漢文の序・跋、および95景の画からなる風景画帖です。嘉永元年(1848)の序は、大坂を代表する漢詩人篠崎小竹によるものです。また画は28名の画師によるもので、西山芳園、上田公長、玉手棠洲といった四条派につながる大坂の画師が多くみられます。タイトルの「勝概」とは「すぐれた趣」「よい景色」を漢語で言い表した言葉であり、大坂城、四天王寺、住吉大社といった名所や大坂の景観を特徴づける水辺の風景が描かれています。その中に★「大江阪鳧鐘」という絵がありました。たぶんこれは「釣鐘屋敷」ではないかと思います。
1870年(明治3)明治政府によって“時の鐘”は廃止され、現在の場所から200m離れた★「長光寺」に預けられました。
※「長光寺」浄土真宗本願寺派
540-0034大阪市中央区島町2-2-19/06-6941-3362
1872年(明治5)すぐ隣の石町2丁目にあった★「江畔小学校」に移動されました。
《参考》1872年11月に東大組第十一番小学校が開校した。同校は1878年に「江畔小学校」と改称している。また1873年4月には東大組第十番小学校が開校した。島町小学校(1875年)の名称を経て1878年に石山小学校へ改称した。石山小学校・江畔小学校の2校が1885年1月1日付で合併し、北大江尋常小学校が発足している。1895年には旧石山校敷地に移転統合している。
1926年(大正15)★「府立大阪博物場」を経て、「大阪府庁」が新築された際、屋上に★「鐘楼」が建てられて移動しました。大戦下の金属供出では、あわや溶かされるところだったそうです。
《参考》大阪府庁歴史物語
http://www.toho-leo.co.jp/oosakafu/model.html
現在の大阪府庁は、3代目にあたり1923年(大正15)に竣工しました。この3代目の庁舎の設計は当時としては珍しく設計競技(コンペ)によって決定されました。その時の賞金は、一等8000円・二等4000円・三等2000円。全国から約8000通の応募があり、その中から東京の平林金吾、岡本馨両氏の設計が当選し、原設計が修正されることなく建設されたそうです。当時の平均賃金が月35円、府庁食堂のお弁当が10銭、うどんが5銭という時代でした。ちょうどこの年東京では関東大震災が発生し、多くの建物がダメージを受けました。大阪府庁建設に当っては、工事の最優先課題が最大限の耐震・耐火構造を実現するということになったのです。躯体は最新のコンクリート造りで固められ、全部の扉と窓がスチール製となり、窓ガラスは金網入りのものが採用されました。規模も大きく事務的な機能性を重視していて、まさに現代的なビルディングの先駆けとなっていたのです。設計図書には、・自由近世式(白亜の大殿堂)・鉄筋コンクリート造り・地下1階・地上6階、間口55間・奥行46間、建坪9200坪・高さ100尺。屋上に★「鐘楼」、正面玄関に菊の御紋章。扉(鉄製)窓(ドイツ製金網入りガラス)外装(品川白煉瓦)玄関柱(香川産紫雲石=雨が降ると紫色に発色する)玄関内(イタリア製淡紅大理石)床(リノリューム)貴賓室・議事堂内部(チーク材)正庁(ステンドガラス・シャンデリア)エレベーター(3基)エレベーターは当時非常に珍しく、それに乗ると「天国へ昇れるような気がする」とか「階段がいくつあって、廊下をあるくと一里あるそうだ」とか人々に言われたそうです。
1970年(昭和45)「大阪府有形文化財工芸品」第1号に指定されました。
1985年(昭和60)地元の熱意に応えて、大阪府が「歴史的経過からみて、釣鐘屋敷跡へ移転することが適切である」と決意し、現在の場所に里帰りしてきました。約22年前、地域の人が中心となって、「由緒のある大事な鐘なので鐘楼を建てて、吊るしておくだけでは意味がない。鐘を守っていく会が必要ではないか」ということで、保存会を作りました。釣鐘町の1丁目と2丁目の保存会婦人部で、週に1回ずつ、釣鐘のまわりなどを清掃してもらっています。会の運営は、「中大江校下」の町会長を中心とした人たちで行っています。鐘楼の五つの輪は、4度の火災をくぐり抜けてきて「5度目に鐘楼に帰った」という意味と、自主、自立、自由、活力、創造という大坂の町人の精神を表現して作られています。中央に高くのびている柱は、時計の長針と短針を表現しています。「一からスタートしよう」という気持ちを込めて、時計の針を0時に合わせたような形になっているわけです。普段は、コンピュータ制御で午前8時、正午、日没時間の1日3回、金属の先に木をつけた撞木で鐘を撞いています。また、見学はいつでもできます。大晦日の夜だけは、シュロの木を削って作った撞木に付け替えて、来られた方全員に撞いてもらっています。当日は“除夜の鐘”の行事として、年越し蕎麦やコーヒーも振舞っています。
http://osakacommunity.jp/chuo/chosei_kaigi/chiiki/chokai_shokai.html
※『大坂町中時報鐘顕彰保存会』運営委員長
初代:(?)「スプレモコーヒー店」橋さん
540-0035大阪市中央区釣鐘町2-3-14/06-6943-0345
2代目:「山田薬品株式会社」山田さん
540-0035大阪市中央区釣鐘町2-1-11/06-6943-1571