大阪再発見(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・新しい資料・情報を「大阪府公文書館」などで見つけました。

《大阪府庁舎の歴史(明治時代)》より

1868年(慶応4)1月22日、大阪府の前身である「大阪鎮台」が、西本願寺の津村別院(北御堂)内に設置されました。大阪鎮台は、行政・司法・軍事の全ての権限を兼務する組織でしたが、同年1月27日には「大阪裁判所」へと改称されることになります。・・・同年2月2日になると「大阪裁判所」は、津村別院から元西町奉行所に移転し、そこを庁舎としました。そして、同年5月2日には「大阪裁判所」が「大阪府」へと改称されました。


こもん1


《1986.3「大坂城惣構・西町奉行所跡発掘調査概要大阪府教育委員会

この調査は大阪中小企業振興センタービル建設予定地で実施したものでこの地点は大坂西町奉行所跡としてよく知られている。調査の結果、予想以上に多数の遺構面が検出された。この調査で奉行所跡の下層には享保の大火で炎上した御塩噌蔵があり、江戸時代前期の浜の御蔵も検出された。さらに下層には大坂冬の陣で戦場となった★「大坂城惣構が初めて明らかとなり、その下層から戦国時代後期の大坂の町並も出現した。各時代を追って写真と遺構の説明があり、非常に興味深い。

目次/(調査に至る経過調査地の沿革戦国時代後期の町屋から大坂西町奉行所へ各時代の遺構


こもん2


1950年(昭和25)府政画報第2号~第40》より

★「大阪府立貿易館」は大阪市東区内本町にあって、ここは明治23年より★「大阪府陳列所」として創立してから、府下産業の助成機関として活動してきたが、昭和6年★「貿易館」に発展して輸出品の陳列、取引の紹介、斡旋等、中小商工業の貿易振興のために海外商社と通信して照会したり、大阪商品を紹介して貿易のために資料も準備して、商工業者の利用をを大いに望んでおります。

★「国際見本市会館」昭和25年7月に府が2億7万円の予算で着工してより業界で大阪貿易センターとして期待されていますが、本年10月完成の暁は7階だてのビルに内外の貿易商品の見本がぎっしりと詰り、設けられる貿易関係の事務所や、バイヤーの事務所、ホテルには大阪商品輸出商談が活発に行われるでありましょう。会館は明治時代に★「博物場」のあった大阪市内の内本町に白亜の偉容を目ざして工事中で、戦後大阪で初めての宏大建築が出現するのは今少しというところです。


こもん3


《「1951国際見本市会館(第1期)」施工:大林組

http://www.obayashi.co.jp/works/work_H690

《「大阪時事新報1937昭和123.16

新聞記事文庫博覧会及商品陳列所(6-160)神戸大学附属図書館より

対立した国際見本市会館東京の抜打的建議に大阪は一国一館で猛進知事の上京と共に声明書を発す

・・・「大阪」と「東京」は昔から張り合っていたようです。

国際見本市会館

1951年(昭和26)25日★「国際見本市会館開館


こもん4


大阪コクサイホテル】(1951~1999

大阪府の第3セクター(財)国際見本市協会が経営していたが、97年の累積赤字が16億5000万円にも膨れ上がり、99年3月で閉鎖された。

シティプラザ大阪】(2006.4竣工/建築設計:日建設計

http://nspacedesign.co.jp/project?item=871

540-0029大阪市中央区本町橋2-3106-6947-7702

http://www.cityplaza.or.jp/

公共の宿の一つである新大阪シティプラザが、大阪都心内本町の旧大阪コクサイホテル跡地に移転そして新しくできたのが「シティプラザ大阪2006年7月7日オープン。経営母体は大阪府市町村職員共済組合、公共の宿で

※「新大阪シティプラザ

532-0003大阪市淀川区宮原4-5-3006-6393-1111


こもん5


・・・さらに「展示会・博覧会・見本市」について調べていきます。

京都・近代化の軌跡~京都博覧会の開催》より

http://www.kyodoyukai.or.jp/rediscovery/rediscovery004

1798年さまざまな物品を集めて展示する博覧会(国内博)は、フランス革命期のパリで始められました。回数を重ね、出展される物品、とくに新しい工業製品に人々の関心が集まるようになると、フランスだけでなく近隣国も開催するようになります。

1851年複数国が参加する国際博覧会(万国博)が提唱され、最初の国際博ロンドン博が開催されます。当初は国際見本市的な性格が強かったようですが、しだいにブラッシュアップされ、娯楽的要素も加わると一般の関心も強まり、ブームにまでなります。

1867年(慶応3)そうした事情は開国後の日本にも伝わり、第2回パリ万博に幕府と薩摩藩・佐賀藩が出展参加しています。こうしたことから明治初期、西洋事情に関心を持つ者には、博覧会なるものの存在と意義がすでに理解されていました。京都府も勧業政策の一環として、いち早く、これを採り入れたわけです。

【京都博覧会】

東京遷都後京都が寂れるのを心配した当時の槇村知事や京都府関係者らは府下の有志に呼びかけこれを受けて★「西本願寺で博覧会を主催したのは、三井八郎右衛門(三井財閥の総領家)・小野善助(豪商「小野組」のオーナー)・熊谷久右衛門(鳩居堂)の3人で、京都府が資金の一部を援助。1871年(明治4)10月11日~11月11日で、入場者総数は11,200人。陳列品は骨董品や伝統工芸品が主体で、翌年からの京都博覧会の先駆けとなりました。西本願寺での博覧会の直後、その後の京都博覧会を企画・主催する「京都博覧会社」(後に京都博覧協会と改称)が京都府と民間の合同で創設されました。


《「乃村工藝社」博覧会資料》より

http://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1581

明治4年の創設は予期以上の成績を収めたので更に同志を糾合して、常設団体として京都博覧会社と命名した。京都府もこれを時勢にかなうものと認め、御用掛として府の吏員を派し、保護と便宜を与えた。出品勧誘も府が布達して収集し、許されていなかった外国人の京都入りも許可された。会場も前回は西本願寺だけであったが、それに加えて建仁寺と知恩院の3会場とした。出品物も増加して会場も拡大したが、内容はあまり前回と変わりなかった。しかし、博覧会は異常な成功を収め、明治天皇も臨幸され、会期も30日延長された。また、外国人の入京を意識したこともあるが、博覧会を一層盛り上げるために”付博覧”というイベントを計画した。それは当時京都府参事であつた槙村正直の発想で、祇園の楼主たちを口説いて実現するのであるが、楼主たちも祇園の発展策として「万亭」(いちりき)の杉浦治郎右衛門が首脳となり、歌舞教師片山春子らをして新曲の節譜(ふしづけ)をつくり、祇園新地新橋松の屋を舞台に開かれ、連日、押すな押すなの盛況であった。この都踊りは翌年には歌舞練場を設け、春の京都名物として今日まで続いているのである。


・・・京都も気合いがはいってますねえ。