大阪再発見(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大坂城惣構跡 西町奉行所跡 史跡 大阪府庁跡(初代)

http://www.mydome.jp/summary/transition/detail.html

文禄年(1594)豊臣秀吉は 大坂城と城下町を大きく取り囲む 延長キロメートルに及び城壁を築いた これは大坂城惣構と呼ばれ 町を防御し城の守りを更に固めるために作られた軍事施設で 小田原城や伊丹城など ごく一部の城にしか見られない珍しいものである 昭和6012月 当地を発掘調査した結果 地下メートルのところから溝で囲まれた建物や広場がみつかり 惣構の一部が砦になっていたことがわかった この惣構に沿う東横堀川に本町橋がかっている上でとりわけ重要な場所とされ 慶長19年(1614)大坂冬の陣において豊臣方の侍大将塙団右衛門が この橋を渡って徳川方に夜討ちをかけたことで有名である 江戸時代になると 大坂は幕府が直接支配するところとなり ここには浜の御蔵と呼ばれる米蔵や代官所が建てられた やがて大坂城で使う味噌を醸造するところとなり 春屋(大豆を細かくつぶす所) 麹室(発酵をさせる所) 土蔵(味噌を貯蔵する所)などが設けられたこれらを御塩噌蔵とよんだ。 享保年(1724)には 妙知焼といわれる大火により このあたりはすべて灰燼に帰した この焼け跡に移ってきたのか 西町奉行所(敷地は9600平方メートルに及ぶ)である 明治になると大阪鎮台営所(軍司令部) 大阪裁判所として使用されたが すぐに初代大阪府庁となり 庁舎は奉行所の建物がそのままつかわれた 明治年になると大阪府庁は西区江の子島に移転  更に大正15年 東区大手前之町に移され現在に至っている なお当地は初代大阪府庁跡として 昭和4520日 大阪府文化財保護条例により 史跡第号に指定された 昭和62月 大阪府教育委員会

西町奉行所跡》(駐車場側の石碑側面

西町奉行所は 享保年(1724)からこの地におかれ 庶民との関係が深かった 明治時代には市内随一の楽園大阪博物場がここに設けられた


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・・・「初代大阪府庁」は「西町奉行所」の建物がそのまま使用されたということですが、「大阪府庁」の変遷を調べてみることにしました。(参考資料「旧大阪府庁舎略史」「大阪あーかいぶず(大阪府立公文書館)」など)

鳥羽伏見の戦い

1868年(慶応4)1月6日、敗北を喫した第15代将軍・徳川慶喜は、大阪城を抜け出し、天保山沖より軍艦「開陽丸」で海路江戸へと戻った。月9日には大阪城炎上し、在城諸士も去った。大阪城代もなく、町奉行所もその門を閉じる有様で、当時大阪は「無政府状態」であった。


【北御堂(津村別院)】

http://www.kitamido.or.jp/

1496年(明応5本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに一つの小さな坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していった。

1499年(明応8)蓮如上人のご往生

1533年(天文2)山科本願寺の焼失により、大坂御坊(石山本願寺)が本山となる。

1570~1580「石山合戦」織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなりました。(本山は紀州鷺森へ退去)

1591年(天正19)本山の京都移転後、大坂門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新坊舎を建立。

1597年(慶長2)その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれてきました。この南北両御堂(通称=御堂さん)の近くに、篤信の門徒(近江出身の商人など)が集まり、大坂の商業の中心「船場」の町を築きました。その昔、ここで働く商人たちは、「ひときわ大きな屋根を誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の聞こえるところで商売を」を合い言葉に商いに精を出したといいます。

★1868年(明治元)地方官庁としての大阪鎮台が置かれ明治天皇の行在所となる。

1945年(昭和20)3月の大阪大空襲で焼失

1964年(昭和39)西洋風の建物で復興し現在に至

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大阪鎮台】(大阪府の前身組織

1868年(慶応4)月22日大阪鎮台」には、大納言・醍醐忠順が「参与兼内国事務掛」、宇和島少将・伊達宗城(外国事務総督)督(統率・監督)摂津・河内・和泉の政務を掌ることとなった。

1868年(慶応4)1月27日、醍醐・伊達両名が来阪する前早くも大阪裁判所へと名称が変更される。これに伴い、醍醐は大阪裁判所総督に、伊達は同副総督に任じられることとなった。こうしたことから、大阪鎮台の地方政庁としての実態がなかったのではないかとの見方もある。明治新政府の成立直後に国内の枢要な地に置かれた「鎮台」は短期的な軍政機関であり、大阪のほかに、大和鎮台(慶応4年1月21日~2月1日)・兵庫鎮台(1月22日~2月2日)・江戸鎮台(5月19日~7月17日)などが当時存在していた

大阪裁判所

大阪鎮台大阪裁判所と名称が変更され、大阪裁判所による統治が開始されることとなった。現在では、「裁判所」といえば、一般に、「司法権を行使する国家機関」のことを意味する。しかし、ここでいう「裁判所」とは、行政機関の呼称である。明治初年には、大阪裁判所のほか、兵庫・長崎・京都・横浜・大津・箱館・笠松・新潟・但馬府中・佐渡・三河の各裁判所が設けられている。しかし、1868年(慶応4)4月の「政体書」で、地方が府・藩・県に改められ、各裁判所は府・県と改称され、行政機関としての「裁判所」は漸次消えていった。

《参考》1987実記・百年の大阪(編:読売新聞大阪本社社会部)」

同書には、西町奉行所には武者窓・海鼡塀があり、奉行所の本館がそのまま法廷に用いられており、正門両脇の門長屋が執務室として利用されていたとの記述があり、写真も掲載されている。


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【2代目大阪府庁舎

大阪府は明治5年になって庁舎新築の議を決して、川口居留地の向かい側に位置する江之子島の地に庁舎新築工事を着手し、1874年(明治7)7月に竣工、同月19日に開庁式を挙行した。この府庁舎建物は煉瓦造り二階建で、建坪416.37坪、延坪830坪の規模である。外装は石灰モルタル塗り、正面玄関には三角の破風を支えるように四本の円柱を立ててポーチを構え、屋上中央にはドームを置くものである。正面の破風とドームには金色に輝く菊花の御紋章が据え付けられた。建物の平面形は正面幅200尺(60.6m)、側面幅80尺(24.2m)の長方形を成し、両ウィング(翼)が前後に突出する。高さについては根石が9尺(2.7m)、煉瓦壁48尺(14.5m)、ドーム100尺(30.3m)とされる。内部は中央に円形ホールが吹き抜けとなり、奥には大階段を設置し、桁行き方向に中廊下を通して左右に部屋を置く。総工費は5万0369円、うち官費が1万6789円、民費が3万3579円で、「一公二民」の割合で民間に負担させている。


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この府庁舎が西向きに建てられたことについて、市内に背を向けるのかという批判を浴びたが、当時の大阪府知事である渡辺昇は「大阪の発展は西方にあり、大阪湾から広く海外に雄飛せねばならない」とかわした、という逸話が残されている。府庁舎の設計はキンドルともウォートルスとも伝えられる。キンドルについては、当初彼に設計を依頼したが報酬が高すぎるので解約し、図面だけ写し取って日本人だけで建築したというエピソードがある。これは伝聞情報であるが、府庁舎建物の細部に問題があることの理由付けにこの話を持ってくる見解がある。これについては、日本が西洋建築を受容するには未熟な時代であったことを示すものとして受け取っておきたい。府庁舎は煉瓦造りにもかかわらず外壁は石灰モルタル塗りで、一見石造建築の様相を呈する。これは明治時代半ばまでは、石造建築が格式の高いもので、煉瓦を外壁に見せるのは倉庫などの付属建物だとする考えがあったからだと思われる。府庁舎は正面玄関に四本の円柱を並べているのが目立つ特徴となっている。円柱はエンタシスではなく、下から上まで同円径という。柱頭にはコリント風の装飾が付加される。この円柱は元来池田市神田に所在する神社にあった神木で、樹種はケヤキとされる。明治6年4月に伐木し、府庁舎建築に供された。この神社は現在の八坂神社と思われる。ここは早苗の森とも呼ばれる神社で、かつては広大なケヤキの森があった。なお資料によってはこの円柱を「石柱」としているが、これは木柱を塗布して石柱風に仕上げたからだと思われる。


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2006年(平成18)旧府庁舎が所在した場所で緊急調査」が実施された