・・・大阪再発見(1)で「新聞(報道)」の重要性を再認識したと書きましたが、次のようなこともありました。
《朝日新聞創刊130年》
http://www.asahi.com/shimbun/company/outline/history.html
朝日新聞は1879年(明治12)1月25日、大阪で創刊第1号を出しました。総ふりがな・さし絵入り小型4ページ、定価1部1銭、1カ月18銭、従業員約20人、1~4号は3000部印刷。創始者は村山龍平で、大阪★江戸堀南通に会社創立、約2年後に上野理一が経営参加。わかりやすく、親しみやすい大衆向け新聞を、というのが創業時のモットーでした。
●創刊記念日に、130年分のニュースを凝縮(『広告月報』2009年3月号より)
1月25日、創刊130周年を記念し、創刊の地・大阪本社で全8ページの別刷り編集特集「朝日130年新聞」を発行した。130年分のニュースを1部の新聞に凝縮するというコンセプトのもと、レイアウトも新聞本紙と同じものにするほどこだわってこれまでにない「新聞」を発行した。1面のトップニュースは「アポロ11号の月面着陸」。130年分の記事の中からトップニュースを選ぶ作業には数日を要したが、「明日に希望が持てるようにしよう」という思いを込めて決まった。同じ面には、新憲法施行を配して取り上げる内容に幅を持たせるようにした。また、1964年の東海道新幹線開通と2008年の初代新幹線0系の運転終了が隣接して記事になるという、時代の流れを感じることもできる新聞になった。編集局内の各所から「キャンディーズに関する記事はぜひ入れ たい」「我が故郷のニュースが少ない」などの声が寄せられるなど、社内でも盛り上がりをみせた。制作過程における苦心も多く、大半の記事が今回改めて手打ちで入力された。明治~昭和の記事には、現在では許されない容疑者の呼び捨てやプライバシーにかかわる部分がままあったほか、用語表記を現代仮名遣いに改めたりルビを振ったりと、推敲には予想以上に手間がかかった。校閲には普段の5倍の手間ひまを要した。そうした結果、130年の時を超えて走り続けてきた朝日新聞の歴史と重要性を伝える媒体として読者からも見てもらえるものになった。掲載後のモニター調査では、接触記憶も高く、「なつかしい」「歴史が感じられる」「おもしろい」という評価が得られた。また、紙面について「すでに話題にした」と答えた人も予想以上の数で、話題の広がりもうかがえた。実際、ブログには「永久保存する」という書き込みや、オークションサイトへの出品もみられた。自由回答からも、「歴史を感じた。どんどん変化していく世の中で、新聞はかけがえのないものだということを深く思った」「とてもインパクトがあり手を止めて見ました」という好意的な意見が寄せられた。これまでにない切り口の紙面に、広告主からも高い評価を得た。「朝日130年新聞」は、新聞の原点にかえりつつも、温故知新のツールとして新たな活用策を示すことになった。
《朝日新聞創刊130周年記念事業》
http://www.asahi.com/information/db/130/
明治・大正期の朝日新聞紙面のデータベース化を進めています。完成すると、明治から現代までのすべての記事がパソコンを使って検索、閲覧できるようになります。今回の事業は、文明開化期の1879(明治12)年から、大正デモクラシー期の1926(大正15)年までの紙面が対象です。この半世紀、日本は急速な近代化の道を歩みました。日清、日露戦争、第1次世界大戦などを経て、やがて始まる日中戦争、第2次世界大戦に世の中が傾斜していく時代でもありました。新聞はそうした世の中の動きをたどり、人々の声を伝える記録の宝庫です。
★「創刊第一号」の記事/1879年(明治12)1月25日
「江戸堀南通三丁目の當府★勧工場は近々新築落成の由なるがもはや該場へ物産寄集めの事務は来二月中旬より取掛らるるよし」
・・・1878年(明治11)8月10日「府立勧工場」設置、西区江戸堀南通3で建設工事が始まり1879年(明治12)1月末頃に落成。2月中旬より物産寄集めが開始され、1879年11月に開場したようです。しかし1880年(明治13)には★「大阪博物場」に吸収されました。
【勧工場】
一般に勧工場は、小売商店の集合施設であり、今でいうショッピングモールのようなものであった。ここでは青果、なま物以外の出店は許されたようである。形態は、後に出現する百貨店に近い三階建て以上のものから、通り抜けの商店街程度のものまでさまざまであった。それ以前の商店における販売形態は、店頭に商品を置かず、交渉で売買を成立させる「座売り」が一般的だったので、土足のまま入ることが出来、場内に同時に並べられた様々な種類の商品を正札を見て買うことのできる勧工場の販売方式は画期的であり人気が高かった。多くの人が、勧工場での楽しい思い出を書き綴っている。人ごみの紛れて、売店を見て歩くことは無上の楽しみであったようだ。子供連れで多くの家族が勧工場を訪れ、人にぶつからずには歩けないような盛況であったと書かれている。勧工場の最盛期は明治35年ころで、東京だけで全部で27の勧工場があったと言われている。数が増えるにつれて品質の悪いものを売る店も出て、勧工場物すなわち安物という見方もされるようになった。一方で、東京では★「百貨店」が出現して隆盛になっていったので、大正に入ると勧工場は急激に姿を消していった。百貨店の進出が遅れた地方都市では、昭和に入ってからも勧工場は重要な商業施設として存続した。
【共進会】
代表的な物産や技術を一堂に集めて、一般の観覧に供するとともに,生産者,販売者に優劣を競わせて品質改良・産業振興を図るという目的の催しで一種の博覧会である。
《大阪商工界の生きた図書館/竣工した大阪商品陳列所》
1917.4.26(大正6)大阪朝日新聞より
以前堂島の商業会議所の隣に「商品陳列所」と名づけられた古ぼけた木造の建物があった、外観は頗る見すぼらしいものであったが内容の充実せる点に於ては遠く亜米利加の費府の商品陳列館と並び称せられ日本人よりも外国で有名なものであった、夫れが北の大火で焼けて了って久しく断絶した家名を本町橋の旧★「博物場」敷地に再興さるる事となって去年の春から建築にかかり此程漸く落成に近づいた目下内部の装飾中であるが旧建物の鬱陶しきに較べて花岡石造三層の輪奐目さむる許りに装を凝らし大阪市の一偉観とするに足る、館長山口貴雄君の熱心な肝煎で種々な計画がされてあるが徒らに商品を列べる丈が能事でなく真に大阪商工界の生きた「図書館」にせんというのが館長の理想で調査部に特に意を注ぎ英、米、露、支那と国別に貿易に関する調査をなし特に大阪に縁の深い支那は北と南とに別って精密な調査を行い少しも外国の事情に通ぜざる商売と雖も此部に行けば貿易を開始し得るまでにしようというので既に各係を設けて調査を開始して居る又図書館も一般の図書館と異って国別に種々の材料を蒐集して商品目録の如きこれを世界的に網羅せんとの計画である、それから「図書室」というのがあってこれにはいろいろの広告図案に至るまで需めに応じて調査し考案される計画を立て美術館の様に展覧室が拵えられて居る「機械館」には各種の機械を陳列するのみならず五十馬力の電力を通じて常に運転を実施する方針で愈総てが完成された暁には大阪の商工界が享くる利益は少からぬものであろうが一般にこれをよく利用する事を忘れてはならぬ、因に此建築に要した費用約三十万円で尚此建築を完成した上は松屋町通にある旧★博物場の建物を毀ち間口六十間奥行八間の「広告館」建築する予定で階上は諸種の会合の為めに使用する会堂とし階下は広告の意味で種々な商品の陳列を行う筈で表通りの荘厳な建築と正反対にこれは木造で頗る綺麗な建物にする積りだと館長は談して居た
朝日新聞社は中之島で130年以上にわたって新聞を発行。話題を呼ぶ建築物をこの地に建てつづけ、文化の発信役を担ってきた。1879(明治12)年1月、現在の大阪本社の所在地から約500メートル南の江戸堀で創刊した。棟割り長屋の1軒に印刷機械を置いてのスタートだった。中之島に本拠を据えたのは1885(明治18)年。梅田停車場が近く、船での新聞用紙の搬入に便利だったからだ。4千平方メートルの敷地がある旧宇和島藩の蔵屋敷を購入し、社屋に改装。刷り上がった新聞は長屋門から荷車で運びだした。社員が増えて蔵屋敷が手狭になり、1916(大正5)年10月、当時珍しかった鉄筋コンクリート造りの新社屋が完成。4階建てで高さ40メートル近くの時計塔を備え、一般向けの見学会には11月28~30日の3日間で1万6千人が訪れたという。
10年後には黒に黄金の彩色をほどこした朝日会館(6階建て)を建設した。2階までは印刷などの施設、3階に展覧会場、4~6階に1600人収容の「公演場」を造り、国内外の演奏家らが来演した。創刊50周年を記念し、1931(昭和6)年に建てた朝日ビル。全館完全冷房で、屋上には国内初の航空灯台やアイススケート場を備えるモダンな建物だった。長年親しまれてきた丸みのある外観は、中之島フェスティバルタワーのデザインにも引き継がれている。