大阪再発見(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

新年あけまして おめでとうございます


はつけ1


・・・「大阪博物場」について調べてきましたが、新年からはテーマ「大阪再発見」に変更して、さらに充実発展していきます。まず「大阪博物場」施設をより詳細に調べてみました。

《関西・大阪21世紀協会中之島センタービル29階

530-6691大阪市北区中之島6-2-2706-7507-2001

http://www.osaka21.or.jp/index.html

当協会は、1982年に産官学が一体となって設立されて以来、一貫して文化による都市の活性化―『文化立都』の気運醸成に向けて活動を展開し、とりわけ、21世紀に入ってからは「水都大阪の再生」「文化創造」「大阪ブランドの向上と発信」を柱に、オール大阪のミッションの推進役となって活動を先導して参りました。

初代会長に松下幸之助(松下電器産業相談役/1982~85)が就任し、続いて芦原義重(関西電力会長/1985~93)、佐治敬三(サントリー会長/1993~99)、熊谷信昭(大阪大学名誉教授/2000年~現在)が歴代会長に就任しました。

2012年には設立30周年を迎えると同時に、公益財団法人に移行いたしました。2014年より、独立行政法人日本万国博覧会記念機構の解散に伴い、日本万国博覧会の成功を記念するにふさわしい活動に助成する「万博記念基金事業」を承継しました。また、民による新しい芸術・文化支援の仕組み「アーツサポート関西」による助成事業もスタートいたしました。


はつけ2


なにわ大阪再発見・創刊号監修梅棹忠夫/発行:1998年(平成10)3月

府立大阪博物場―大阪における博物館の誕生」著:田中和弘

115号より、タイトルをKANSAI*OSAKA文化力」(Webマガジンに変更いたしました。文化の力で関西・大阪に活力をという当協会のスローガンの下、大阪を中心に関西で活躍されるオピニオンリーダーや文化の新しい胎動を予感させるアーティストらにスポットをあて、提言や日頃の活動紹介をします。

・・・かなり鮮明な「府立大阪博物場案内図」や「天井画・双龍鳳凰図」、移管・移築の経緯も簡潔にまとめられていました。また「大坂町中時報鐘」など新たな情報についても得ることができました。


はつけ3


「大阪図書館」に移管された図書、「大阪天満宮」に移築された能楽堂の他、場内に置かれていた「大坂町中時報鐘」(府指定文化財)は大阪府庁の屋上に移された後、昭和60年に元の場所(釣鐘屋敷跡、現中央区釣鐘町)に里帰りしました。また、「博物場」旧蔵の谷文晁絹本著色木村蒹葭堂像(重要文化財)などの美術工芸品や木村蒹葭堂貝石標本(府指定文化財、大阪市立自然史博物館蔵)も残されています。


はつけ4


・・・次の資料はすでに確認済でしたが、細部まで読めてなかったので貴重な情報を見落としていました。

【明治初期の博覧会における能楽場と貴賓来場との関係について】

著:奥冨利幸(日本建築学会計画系論文集第73巻第623号/2008年1月)より

《大阪博物場における能楽場》

大阪博物場が建てられた場所は・・・大阪府庁の移転に伴い、1874年(明治7年)7月5日に大阪府知事渡辺昇が内務卿大久保利通に博物場の建設許可願いを提出し、翌年の1875年(明治8年)4月9日の布達により、正式に博物場が開設されることが公示された。「大阪博物場概則」によけば、この博物場は社会教育以外に商業目的も併せ持っていたことがわかる。1875年(明治8年)11月1日に開場となったが、開場時には会場が2つに分けられ、一つが「商品場」、もう一つが「名品場」という構成であった。

その後、1884年(明治17年)に「動物檻」を新設して、同年に名称を「府立大阪博物場」に改称している。1886年(明治19年)に事務所、物品陳列所を新築、1888年(明治21年)に「美術館」が新築された。美術館では、収蔵品として、府下の富豪の美術品を借り受け、外観は洋風のレンガ造であったが、天井には法隆寺、天王寺の古画を模写した。その後も、1890年(明治23年)に「錦繍堂」を新築、1893年(明治26年)に「表門」を改築し、「売品室」2棟を新築、1897年(明治30年)に「東門」を開設し、「売品室」4棟、「古器陳列室」、「能舞台」と「大広間」を新築、1899年(明治32年)に「能楽場」の脇正面を新築、1900年(明治33年)に「水禽舎」「鳥舎」を新築、1902年(明治36年)に動物各舎を新築するなど、次々と施設の拡充を図った。そして、1914年(大正3年)に解散された。


はつけ5


博物場での様々な施設の中で。1897年(明治30年)に「能舞台」が建設されているが、当時の「大阪朝日新聞」1898年(明治31年)12月1日の記事によれば、12月4日と5日に観世流と喜多流により舞台開きが行われたとある。また、当時の博物場の姿を確認できる資料として「府立大阪博物場案内図」がある。この絵図が発行された1903年(明治36年)には、府立大阪博物場に程近い天王寺公園で。「第5回内国勧業博覧会」が開催されており、内国勧業博覧会の開催にあたっては、会場の地図などを載せた会場案内が発行されたが、この絵図も同年に発行されているので、内国勧業博覧会に合わせて作成されたものと考えられる。そして、当時の新聞がこの博物場で、内国勧業博覧会協賛の「演能会」が開かれたことを報じている。つまり、府立大阪博物場が、内国勧業博覧会の支援施設として機能していたことが伺える。また、府立大阪博物場絵図の左端には、この博物場の由緒が描かれており、博物場は当初から複合的施設であったわけではなく、規模を拡張しながら当時の姿になった点が記載されている。この絵図の方位は上が東で、敷地は東横堀川に面して、右下隅に架かるのが「本町橋」である。川に沿って西側な「表門」を開き、その両脇に「売品室」「古器物陳列室」「馬毛細工」がある。敷地中央より西側が「美術館」、北側が「能舞台」と「広間」、南側が「小鳥舎」「水禽舎」「鶴」「鷺舎」「鳥舎」「熊舎」「獣舎」などの「動物檻」、「古代木船」、東側にも門を開き、「書籍縦覧所」と「売品室」を置く。「東門」の前に「錦繍堂跡地」「噴水池」「長春亭」、北東側に「天斬亭」「花細工」、南西側に「優待室」「事務室」「鎮守稲荷社」などがある。敷地全体に「日本庭園」が造り込まれ、瀑布や池なども見える。こうした複合的な博物場の施設の中で、「能舞台」と「広間」に関しての説明が絵図左側に記述されている。つまり、能舞台と広間は同時期に建てられており、「能舞台」の正面に100畳敷の「大広間」、脇正面側と地裏側に2階建の建物が「能舞台」を囲む配置で建てられたことが確認できる。

また、絵図に描かれた「能舞台」が出来上がる前に、すでに博物場に「能舞台」が造られていたことが確認できた。つまり、「大坂日報」1877年(明治10年)6月29日の大阪博物場舞囃子の記事を始め、「西京新聞」1877年(明治10年)11月27日の大阪博物場能狂言、「朝日新聞」1883年(明治16年)4月22日の大阪博物場舞台増築、「朝日新聞」1884年(明治17年)3月19日の大阪博物場能狂言、「朝日新聞」1884年(明治17年)5月28日の大阪博物場能、「朝日新聞」1887年(明治20年)1月11日の大阪博物場能舞台移築、「大阪朝日新聞」1893年(明治26年)2月9日の大阪博物場紀元節能狂言、「大阪朝日新聞」1893年(明治26年)12月5日の大阪博物場小松宮観能、「大阪朝日新聞」1896年(明治29年)4月22日の大阪博物場舞台納めなどの記事が散見できる。これらの記事からわかることは、1877年(明治10年)から演能に関する報道が始まり、1883年(明治16年)4月22日に舞台が増築され、1887年(明治20年)1月11日に能舞台が移築された。つまり、当時からすでに能舞台が存在していたことがわかる。そして、1893年(明治26年)12月5日には、従前の能舞台が取壊され、まもなく、絵図に描かれている新しい能舞台が造られたのである。

・・・このような調査研究において「新聞(報道)」がいかに重要であるか、再認識しました。