《「九州大学広報No.793/平成5年4月》より
明治20年(1887)前後に、画家★桜井香雲が金堂の内部に足場を組み、燈火をつけて、数年がかりで、12面の大壁画を実大に模写した。いまみれば色調も渋く、描線もたどたどしいが、法隆寺壁画の研究者や芸術家にとっては、焼損した実物の直接観察を助ける第一の資料として、貴重な作品となっている。
http://www.city.daisen.akita.jp/docs/suzukikunyo/2013102200276/
桜井香雲の模写本成立の後、約20年ほどして1907年(明治40)から1931年(昭和6)にわたって★鈴木空如が同じく12面実大の模写本を完成させている。鈴木空如は、1902年(明治35)に東京美術学校を卒業した画家で、平福百穂や松岡映丘などと同期生であったが、名利にうとく、生涯を仏画の模写に尽した人物である。空如の模写本は、桜井香雲より一段の進歩が認められ、壁画の主題研究が図像的にまだ不明の点の多い時期にあってその模写本が図像上ですでに解決している点などもみられるのは注目すべきであろう。
これら両本以外にも、和田英作が描いた油絵の5号壁模写本、浦上正則の6号壁のカンパス模写本など、壁画の部分的な模写本が数点ある。そして、1937年(昭和12)前後には、京都「便利堂」により、壁画原寸大の★「コロタイプ版」12幅の大作が完成した。この便利堂本を基礎にして本格的な模写事業は、1939年(昭和14)に文部省内につくられた法隆寺国宝保存事業部が計画実行することになった。入江波光、荒井寛方、中村岳陵、橋本明治など、当時の日本画家20数名が四班に分かれて模写に当った。この模写作業は、原壁画に直接触れることをさけて、便利堂本を模写用の和紙に淡く印刷し、これを下絵に彩色をほどこす方法を採用した。この折の模写作業では、初めて金堂内に蛍光燈をつけたことにより、描線の力強さと配色のはなやかさが眼前に展開し、参加した画家一同感嘆のあまり声もなかったという。
《参考》法隆寺金堂壁画とコロタイプ
http://takumisuzuki123.blog.fc2.com/blog-entry-14.html?sp
《京都市立芸術大学・芸術資源研究センター「特別授業」/平成26年12月》より
http://www.kcua.ac.jp/arc/2014/12/012/
芸術資源研究センター特別招聘研究員の彬子女王殿下は、英国での研究の一環として、3万5千点にも及ぶという大英博物館所蔵日本美術コレクションの収蔵記録の整理をされた。その途中で発見されたものの中に、★桜井香雲という絵師による法隆寺金堂壁画9号壁の模写があった。現存する法隆寺壁画の模写としては最古と推定される本作は、現在東京国立博物館にある香雲の模写の先駆けとなったものであることが判明。この発見がきっかけになり、戦前に京都の便利堂が制作した法隆寺壁画のコロタイプ複製を発見した時のエピソードなどに参加者一同がひきこまれた。法隆寺壁画の一連の発見には古筆了任という人物の存在があった。明治期に自費でヨーロッパ留学をし、大英博物館に雇われて日本美術品のカタログ制作に尽力した古筆は、当時貴重な日本美術鑑定家としてロンドンで活躍。法隆寺壁画の発見も、博物館の日本美術部に残る収蔵品カタログの古筆によるメモが発端だったという。殿下はこれらの経験から、芸術を考える上で避けて通ることのできない、うつしや贋作をどのように考えるべきかという問題について指摘された。一例として留学中に知り合った日本美術コレクターのジョー・プライス氏とのやりとりを提示された。「自分が良いと思って買った作品が贋作だったらどうしますか」との問いにプライス氏は「私が良い作品と判断したのであればそれで十分だ」とおっしゃったという。ここから、たとえ有名作家の作品ではなくとも素晴らしい作品はあること、そして、現代まで生き残ってきたことには理由があることを提示。作品だけではなく、作品にまつわる記録にも価値があることもあるということに触れ、「ただモノが保管されるのではなく、作品にまつわる様々な想いと一緒に残されてされていくことを忘れないで欲しい」と結論付けられた。
※大英博物館には、駐日英国外交官でジャパノロジストのアーネスト・サトウ(1843~1929)が制作依頼し、その友人で外科医・美術品収集家ウィリアム・アンダーソン(1842~1900)が購入し、後に大英博物館に寄贈した櫻井香雲(1840~1895?)筆の法隆寺金堂壁画模写(9号壁弥勒浄土)があります。
《参考》春山武松(1885~1962)
「法隆寺壁画」昭和22/刊:朝日新聞社
大正-昭和時代の美術評論家。明治18年7月15日生まれ。東京朝日新聞社から大阪朝日新聞社学芸部にうつり美術批評をかいた。昭和37年8月22日死去。77歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作に「宗達と光琳」★「法隆寺の壁画」など。
【2013.3.25読賣新聞「府立大阪博物場・巨大天井画」】より
明治から昭和にかけて府民に親しまれた文化・娯楽施設「府立大阪博物場」(大阪市中央区)の中央館を飾った巨大天井画が2013年3月30日に、移設先の関西医科大教養部大講堂(枚方市)で一般公開されるということです。巨大な「龍」と「鳳凰」が鮮やかな色彩で描かれ、当時の大阪の活気を伝えているようです。「府立大阪博物場」は明治8年に勧業を目的として開設された敷地面積が約10000㎡ある施設で、「動物檻」は動物を飼育展示する施設として博物場内に明治17年に開設され、大変な人気を博したようですが、北区空心町で起こった大火をきっかけに廃止決定され、収容動物は大阪市に無償で譲渡されることとなり、「天王寺動物園」の開園に至っています。
【「大阪の歴史」82号/刊:大阪市史編纂所】より
「明治21年の巨獣たち―大阪府立博物場美術館の天井画群―」(著:橋爪節也)1888年(明治21)に開設された大阪で最初の美術館「大阪府立博物場美術館」の天井画についての紹介、ならびにその分析がなされた論考です。
【おおさか美術館ストーリー「商都の博覧会で花ひらいた“美の殿堂”」著:橋爪節也】より
日本人は、“美術館”を生活に無用で空疎な、「箱物」のイメージでとらえがちだが、世界の主要都市では、芸術的感動で人に生きる歓びや力を与える場であり、歴史を伝える教育機関であり、観光の拠点でもある。“美術館”こそ、ソフトそのものだ。都市を人体に譬えるなら、街の賑わいの記憶や感性を司る神経系統、脳の一部といえるかも知れない。さて大阪では?大阪最初の「美術館」という名称の建物は、本町橋東詰の大阪府立博物場に明治二十一年(一八八八)建設された「美術館(博物場中央館)」である。上田耕冲らがこの建物に描いた巨大な天井画が、関西医科大学に移されて現存している。
大阪2番目の「美術館」は、明治三十六年(一九〇三)の第五回内国勧業博覧会で建設された美術館で、博覧会では洋画、日本画から彫刻、工芸、写真、印刷物など、膨大な点数の作品が展示された。建物は、博覧会終了後も大阪市立の大阪市民博物館として利用された。この二館は明治時代らしく殖産興業的な面が強かったが、次に大正九年(一九二〇)の市議会で建設が議決され、東京、京都を抜いて、日本最初の公立美術館となるはずだった現在の大阪市立美術館が登場する。大正十四年(一九二五)に誕生する日本最大の都市“大大阪”を文化面で支えるための美術館で、開館は昭和十一年(一九三六)にずれ込んだが、学芸員中心の企画・常設展を主体に、作品を美しく鑑賞するための採光にも配慮する「近代美術館」を謳うのが先進的であった。この新館建設について日本放送協会の伊達俊光は、「わが大阪市の如き物質万能の社会」において「厳然たる精神的の美の殿堂」として重大な任務を果たし、「美術館が発揚する芸術的雰囲気がこの物質の塵都を幾許なりとも浄化」することを期待した(大阪毎日新聞)。戦後は、吉原治良の「グタイ・ピナコテカ」のような個性的な民間の現代美術館が出来たほか、万国博美術館を府立現代美術館として再開する運動を在阪の美術関係者が進め、府立では実現しなかったが、昭和五十年(一九七五)に国立国際美術館として開館した(現在は中之島に移転)。昭和五十七年(一九八二)には、安宅コレクションの寄贈で大阪市立東洋陶磁美術館も開館する。