博物場(24) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・1888年(明治21)大阪博物場「美術館」落成その天井画などの壁画は「絵画品評会」に参加した上田耕沖櫻井香雲などが担当し奈良正倉院の御物と法隆寺の天井画が模写されていた。ということなので、さらに詳しく調べてみました。

上田耕沖】(18191911

円山派の画家上田耕夫の子として京都祇園町に生まれ、13歳の時に父と共に大阪に移住。父の指導を受けたほか父の友人であった長山孔寅にも画を学び、江戸後期から明治期にかけての大阪写実派画家として活躍、「浪華画学校の教壇に立ちましたまた、健康、健脚で有名で晩年になってから国内名所をまわり、87歳のときに宮内省に献画、92歳のとき大阪天満宮貴賓室襖絵「鷹狩と雪中老松」を製作するもその年で没するまで筆を取り続けた。明治44年1月21日92歳没。子に上田耕甫がいる。

《参考》吹田市にある旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)

旧西尾家は江戸時代初めから皇室に米を納める仙洞御料庄屋を代々務めてきた。風格のある主屋、武田五一設計による和洋折衷の離れや茶の湯の意匠・茶庭が一体となった住宅で建築や文化に対する新しい考え方を取り入れた住宅。玄関の間武士など、身分的上位者や賓客を迎えるための部屋)には、はっきりとした色彩のまま残っている耕沖が描いた花の絵がある


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櫻井香雲】(18401895

復古大和絵系の画家田中友美の門人で、画塾を出た後、按摩を業としながら全国を遊歴していたが、友美の推薦により、1884年(明治17)帝室博物館に保存するための法隆寺金堂壁画」★模写に携わったことが知られている。

入江波光(18871948)

1887年(明治20)京都市に生まれ、初め四條派の森本東閣に学びました。明治34年に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、同窓であった村上華岳や榊原紫峰と親交を結びます。同38年の美工卒業後、志願して陸軍に入隊し一年後に除隊、そののち、同40年に美工研究科に進み、42年には京都市立絵画専門学校(絵専)本科に入学して、44年に華岳、紫峰、小野竹喬、土田麦僊らと卒業します。美工在学中の明治40年の第1回文展に《夕月》が入選しますが、その後の文展での活躍は認められません。また絵専卒業制作の《北野の裏の梅》は同年の第16回新古美術品展で四等を得て、竹喬や麦僊との交流が深まる契機となります。1918年(大正)の国画創作協会の設立に際しては、同人となることを勧められましたが、結局、第1回国展で《降魔》が国画賞を受賞した翌年から同人となり、国展を代表する画家となります。仏教絵画を主とする古典絵画の徹底した研究にもとづくロマンチックな作品を前期国展に発表したのち、同11年から翌年にかけての渡欧後は、古代ローマ時代のフレスコ画の影響を受けた緑色の薄靄に包まれたような甘美な世界を描きました。1928年(昭和)の国展解散後は画壇を離れ、教職に専念しながら水墨画の世界に練達の技を展開していきます。波光は、創作の画家とあると同時に美工や絵専における優れた教育者であり、また模写の第一人者でもありました。とりわけ模写として主導的立場で取り組んだ《北野天神縁起(弘安本)》や法隆寺金堂壁画六号壁《阿弥陀浄土変》を見ると、古典の妙技をその精神にまで切り込んで再現しようとする求道者の姿が認められます。


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NEWS1949年1月26日の悲劇2013.4.2読売オンラインより

法隆寺金堂の壁画は、その歴史的価値と美しさで、中国・敦煌の莫高窟にも比肩する「世界的至宝」と称されてきた。だが、1949年の火災がすべてを変えた。壁画は蒸し焼き状態になり、顔料は熱で変色し、一部は消火活動の際に壊れてしまった。火災から半世紀以上たち、在りし日の壁画を知る人は少なくなった。そんななか、4051年、著名な日本画家が壁画の模写作業をしていた現場を足しげく訪れ、壁画を目にしていたのが、日本画家の入江酉一郎さん(92)(京都市)だ。父・入江波光さん(故人)が「阿弥陀浄土図」の描かれた6号壁の模写を担当。作業では、日本で初めて作られた蛍光灯が採用された。最初に照らされたのが6号壁だった。点灯の瞬間、薄暗い金堂内が真昼のような明るさになり、酉一郎さんら見守った人々から、「うおー」とうなり声が上がったという。壁画の模写には発熱がなく明るい照明が必要だとして、アメリカで1938年に実用化されたばかりの蛍光灯を採用。初めて国産された4本を付けた器具が使われた。金堂の火災でほとんど焼失したが、一部が東芝科学館(川崎市)に保管されている。「素晴らしい壁画が細部まで鮮明に見えた。まさに極楽浄土とはこのことかと、言葉では表現できないほど感動した」戦時中の中断を経て48年に波光さんが没後、京都市立美術専門学校の研究科にいた酉一郎さんが模写を引き継いだ。火災が起こった日、酉一郎さんは起居していた塔頭にいた。「金堂に駆けつけると、私が模写していた6号壁に穴が開き、消火用のホースが突っ込まれていた。その内側は、阿弥陀さんの顔。取り返しのつかないことになったと、悲壮な気持ちになった」と振り返る。父子が9年がかりで描き上げた模写は、火災前日、別の建物に移してあったため難を逃れた。「でも私は二度と見たくはないし、模写もしたくはない。あの美しい壁画が目の前で真っ黒になり、全くの別物になるのを見てしまったのだから・・・


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NEWS2015.11.11朝日新聞デジタルより

法隆寺金堂壁画、初の総合調査へ66年前の火災で焼損

66年前の火災で焼損した世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂壁画(7世紀、国重要文化財)について、法隆寺は11月11日、初の総合調査を実施すると発表した。文化庁と朝日新聞社の協力のもと、学識者らで「保存活用委員会」を12月に設立。3年かけて劣化の有無や最適な保存環境を最新の科学で探り、一般公開の可能性も検討する。壁画は作者不明だが現存する日本最古の仏教絵画で、インド・アジャンタ石窟群(紀元前2世紀~紀元7世紀)や中国・敦煌莫高窟(紀元4~14世紀)の壁画と並ぶ世界的な傑作。飛鳥時代の技法や画材に先端科学のメスが初めて入ることで、アジアとの関連性を示す新発見も期待される。壁画は、釈迦や薬師などの群像を示す大壁4面(高さ約3メートル、幅約2・6メートル)と、各種菩薩像を描いた小壁8面(同、幅約1・5メートル)の計12面。釈迦三尊像(国宝)を安置した金堂の内壁を飾っていたが、1949年1月、堂内からの出火でほとんどの色彩を喪失。この火災をきっかけに翌年、文化財保護法が成立した。今後、「壁画」「建築部材」「収蔵環境」「保存過程の記録調査」などのテーマで、専門家による作業部会を設置。保存活用委の指示を受けて様々な角度から調査し、恒久的な保存方法や、一般公開を含めた活用の可能性を検討する。


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法隆寺金堂壁画

http://www.geidai.ac.jp/geidai-tuusin/timecapsule/b7.html

芸術的価値は、日本において文化財の調査・保護が始まった明治時代初期(19世紀末)からすでに認識されていた。壁画の劣化・剥落は当時から始まっており、いかにして壁画の劣化を食い止め、後世に伝えていくかについては、すでに明治時代から検討が行われていた。1940年(昭和15)からは、当時一流の画家たちを動員して壁画の模写事業が開始された。模写事業は第二次世界大戦をはさんで戦後も続けられたが、1949年(昭和24)、不審火によって金堂が炎上。壁画は焼け焦げてその芸術的価値は永遠に失われてしまった。この壁画焼損事件は、日本の文化財保護の歴史における象徴的な事件として記憶されている。この事件をきっかけに文化財保護法が制定された。また、壁画が焼損した1月26日は文化財防火デーと定められ、日本各地の社寺等で消火訓練が行われている。現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年1968年(昭和4243)にかけて、当時の著名画家たちによって模写されたものである(1940年から開始された模写とは別)。焼け焦げたオリジナルの壁画は法隆寺内の大宝蔵殿の隣の収蔵庫に、焼け焦げた柱などと共に保管されている。現在非公開だが、一般公開が検討されている。


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・・・忘れてはならない、語り継がなければならない教訓、後世に残さなければならない文化財。