博物場(23) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「大阪博物場」の「動物園」「図書館」を紹介しましたので、次は「美術館」関係です。

大阪博物場『楽園』の盛衰/著:後々田寿徳】より

1884年(明治17)11月博物場で「絵画品評会」が行われる。本邦絵画の現状が「悠遠高尚の志望に乏しく、其造詣する所また甚だ卑くして」と激しく批判し、「此技の競争進歩を謀らんとす・・・従来の陋習を破り各派親和を以てますます美術の振作に注意すべし」。この呼びかけによって盛大な「絵画品評会」となった。「本邦派二百十六枚、支那派二百五十枚、参考古画三十幅」もの多数が展示された。

・1885年(明治184月★「天野皎が博物場長となる

・1887年(明治20)2月「美術館」着工

1888年(明治21)落成その天井画などの壁画は「絵画品評会」に参加した上田耕沖・櫻井香雲などが担当した


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近代日本の空間プランナーたち/著:橋爪紳也】より

・1888明治21)に完成した煉瓦造★「美術館は、文字通り★「天野が心血を注いだものであった。美術品の常設館としては大阪初の試みであり、全国的に見ても先駆となるものだ。建坪187坪、天井には奈良正倉院の御物と法隆寺の天井画が模写されていた。床はすべてけやきの寄木張り、東西の入口は大理石が敷きつめられていた。天野皎は、美術品のコレクターとしても一流であり、その眼力の正確さは、ひろく知れわたるところであった。鑑定依頼もおおかったらしく、依頼者を前にして片端から軸物などをチョッとひろげ、無遠慮にも「ああこりゃ駄目だ」とドンドンかたづけていったというエピソードが残る。

天野皎】(18511897

天野氏、名は皎、幼名祐太郎、別に鐵腕と号す、江戸の人、世々徳川幕府に仕ふ、幼より学を好みて業を長谷部甚弥に受け又書法を石川潭香に学ぶ、明治6年東京師範学校を卒業して大阪師範学校本科教師を命ぜらる、後ち奈良県五条師範学校校長・神戸師範学校校長等を歴任し、13年大阪商業会議所書記となる。14年大阪府御用掛となり大阪測候所長・大阪商業講習所長等を兼ね、明治18★「府立大阪博物場長に専任せらる。是に於て専ら心を美術の奨励に致し、兼ねて薀蓄せる智職を以て★「美術館を創設す。又率先唱導して城南今宮村に大阪商業倶楽部の開設を企画する等大に浪華文化の発展に力を尽くせり。24年大阪朝日新聞に入りて編輯の事務に従い、25年臨時博覧会事務局監査官となり、26年閣龍世界博覧会事務の為に米国シカゴに赴き其博覧会の審査官に任ぜらる。27年日清戦役の起るや第ニ軍に従うて能く其任務に務む。30年遂に朝日新聞社を辞し、更に日本製鋼株式会社長となり、幾もなく病を獲て武庫郡住吉村の客舎に歿す。人と為り堅忍剛毅博学宏識、能く詩文を属し尤も書法に長ず。殊に美術に関する造詣深く斯道の為に貢献する所蓋し鮮少ならず、嗣子徳三嘗て職を大阪朝日新聞社に奉ぜり著書:入清日記その他歿年:明治30101647。(大阪人物誌続編より)


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浪華学画会

1889年(明治22)発足時メンバーは、宮崎銕幹天野皎・樋口三郎兵衛森琴石・矢野五州らである。森琴石の周辺には、大阪師範学校・神戸師範学校に任務した人物が多く、大阪博物場では、絵画会の開催など、森琴石と天野皎との関わりは少なからずあったと思われる

森琴石】(18431921

http://www.morikinseki.com/index.htm

南画家、銅版画家。晩年には文展審査員に任命され、大阪南画の総帥と目される一方、若年期は南画を描くかたわら響泉堂の名で、優れた銅版画を数多く制作した。摂津国の有馬温泉(現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎の三男として生まれる。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。明治10年頃から胡鉄梅や王冶梅ら来舶清人画家と交流する。に明治10年代には全国各地の景勝地を巡り、写生画稿が幾つか残っている。1882年(明治15)の第一回内国絵画共進会で褒状。1883明治16森琴石は全国絵画品評会を発起。1884年(明治17)樋口三郎兵衛が道修町の自宅を開放し、大阪で初めて作られた画学校★「浪華画学校で支那画(中国画)の講師を務める等、画家の育成に努め、大阪での近代美術教育の先駆者でありました。後に同僚になった矢野五洲と協働して、1889年(明治22)浪華学画会を結成

・1889(明治23)「大阪絵画共進会」を大阪府立博物場で開催。翌年月に宮内庁の御用画家となったとされる。


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森琴石と歩く大阪編著熊田司・伊藤純/刊:東方出版

明治15年のガイドブック『大阪名所独案内』(森琴石・画/伴源平・文)が紹介する大阪市内の名所109カ所を、大阪市の学芸員仲間が現代の街角にその面影を求め散策する。明治期の南画・銅版画の大家、森琴石の当時の精緻な銅版画の挿絵を収録し、現在の写真等を併載した。各章ごとに周辺地図を付す。



・1893年(明治26)春季[大阪博物場]美術展覧会出品目録

・1893年(明治26)秋季[大阪博物場]美術展覧会出品目録

・1894年(明治27秋季[大阪博物場]美術展覧会出品目録

・1895年(明治28)春季[大阪博物場]美術展覧会出品目録

1896年(明治29)「豊公時代品展覧会目録


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第5回内国勧業博覧会

1903年明治36)3日~月31日大阪市天王寺今宮

http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku5.html

第5回内国勧業博覧会は当初、1899年に開催予定だったが、1900年のパリ万博、1901年のグラスゴー万博への参加準備のため延期されたという経緯がある。日清戦争(1894-95年)の勝利により各企業が活発に市場を拡大していたこと、鉄道網がほぼ日本全国にわたったことなどがあり、博覧会への期待は大きく、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。会場には、農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館のほか、台湾館、参考館が建設された。建物はこれまでの仮設ではなく漆喰塗りで、美術館は大阪市民博物館としてその後使われている。第会場として、堺に水族館も建てられた。


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・1907年明治408月1日~12日浪華写真倶楽部各倶楽部連合展覧会(大阪博物場美術館)

・1908年明治416月「浪華写真倶楽部第回展覧会」大阪博物場西北館

1911(明治44)懐徳堂展覧会」(府立大阪博物場美術館

1912年(明治45、大正元各展覧会出陳目録


以上の資料が確認できました。