【マイドームおおさか「敷地の変遷」】
http://www.mydome.jp/summary/transition/detail.html
1874年(明治7)大阪府庁が江之子島へ移転した跡地に、「大阪博物場」が1875年(明治8)設立されました。その後1878年(明治11)「府立教育博物館」併合、産業見本市、図書館、博物館、美術館、動物園、植物園、舞台、公園がミックスした総合産業文化施設となりました。1890年(明治23)4月24日、英照皇太后・昭憲皇太后が大阪博物場に行啓、大阪府は記念碑を1940年(昭和15)建立。様々な施設のうち「図書館」は1904年(明治37)「大阪図書館(現府立中之島図書館)」に移管。その後、1914年(大正3)「府立商品陳列所」がこの地に新築・再建することを正式に決定、博物場は事実上の廃止となりました。これに伴い、同年、動物舎の動物180点を「天王寺動物園」へ移転。象だけは大きいので、深夜の松屋町筋を歩いて移動、象はサーカス出身だったために、音楽がないと動かないので、鳴り物入りの移動が行われ、沿道には大勢の見物人が繰出して賑やかだったといいます。また、1917年(大正6)「美術館」が商品陳列所に移管され、「能楽堂」は天満天神社に移築されました。
・・・「大阪府立商品陳列所」について★重要なことが抜けていました。
【広島平和記念碑(原爆ドーム)】
原爆ドームとして知られる広島平和記念碑は、原爆投下当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていた建物です。1915年(大正4)4月5日に竣工、同年8月5日に★「広島県物産陳列館」として開館しました。設計はチェコの建築家★ヤン・レツル(ヤン・レッツェル、Jan Letzel)。その当時、県知事だった寺田祐之氏が、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て、彼の設計の建物を物産陳列館にと決められたそうです。一部鉄骨を使用したレンガ造りの建物で、ドームの先端までの高さは約25m、建物の周囲には広さ約500~600坪の和洋両方の庭園があり、洋式庭園の方には八方から水を吐く噴水を備えた池が、また和風庭園には四阿が設けられていました。建築当初は、周囲に木造の建物が立ち並ぶ中にあって、石材とモルタルで外装を施され中心に銅板葺のドームが乗ったこのヨーロッパ風の建物の美しさは評判となり、広島名所のひとつになったそうです。物産陳列館内には、県内の物産品や他府県の参考品が集められて陳列されていました。また、商取引に関する書籍・新聞・雑誌等の閲覧も出来、商工業に関する調査及び相談、図案調製等も業務として請け負っていました。さらに、「博物館」や「美術館」として使用されるスペースもあり、県の重要な文化振興の場でもあったようです。
館の名称は、1921年(大正10)に「広島県立商品陳列所」へ、さらに1933年(昭和8)に「広島県産業奨励館」と改称され、戦争が庶民の生活に暗い影を落とすまで、広島の産業振興・文化振興の中心的役割を担っていたのです。戦争が始まって以降は文化振興の側面は抑えられ、産業振興に重きが置かれるようになる。戦況の激しくなった1944年(昭和19)3月31日にはついに館業務を廃止、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていました。
1945年(昭和20)8月6日、午前8時15分原爆が投下され、市内は一瞬のうちに火の海となり、爆心地から160メートルという距離にあった産業奨励館は、音速を超えるといわれる爆風と衝撃波、熱線を受け大破、天井から火を吹いて全焼しました。しかし、爆心地に近かった事で爆風が上方から垂直に流れ込んだ為に、中央のドーム部分だけは全壊をまぬがれました。鉄枠のドームが残った産業奨励館はバラックの建ち並ぶ焦土とかした広島の街でとても目立ったことでしょう。そしていつしか、人々は、この焼け残った建物を「原爆ドーム」と呼ぶようになったのです。復興が進む中、「原爆ドーム」について、見るたびに惨禍を思い出すので撤去して欲しいという意見と、原爆の惨禍を後世に伝えるためのシンボルとして残すべきだという両方の意見が噴出、議論が沸き起こります。しかし、次第に保存を求める運動が高まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議、翌年には保存工事が完成し、その後も定期的に風化を防ぐための補修工事をうけながら、現在に至っています。1995年に、国の史跡に指定され、翌1996年には、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との願いと戒めの「負の世界遺産」としてユネスコの世界文化遺産への登録が決定されました。
【Jan Letzelヤン・レッツェル】(1880~1925)
チェコスロバキア人のヤン・レッツェルは、1907年(明治40)東京で建築会社を経営していたドイツ人デ・ラランデ(1872~1914)の招きで来日、その後1909年頃(明治42)東京京橋に自身の設計会社を興しました。1915年(大正4)には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国しました。日本での10年弱の間に約20ほどの作品を残しました。
・・・1915年(大正4)に帰国ということは、「大阪府立商品陳列所」1917年(大正6)竣工を見ていないことになりますね。
【「近代日本陳列所研究」著:三宅拓也(京都工芸繊維大学)】
本書が扱う「陳列所」とは、地方行政府によって「物産陳列所」や「商品陳列所」などという名称を冠せられて建設された公共の陳列施設である。これらは博物館関連施設、地域物産の販売所というように、現在の活用方法が異なるだけではなく、竣工時期、意匠、規模、構造、立地環境まで様々である。この種の施設が、都市の農業・工業・商業を奨励する目的で各地に設置された経緯を検証し、制度・活動・建築を含めて都市との関わりに注目することで、明治から昭和戦前期の日本にあまねく普及した〈陳列所〉の実態を、豊富な図版とともに明らかにする。
《参考》「京都工芸繊維大学美術工芸資料館」「村野藤吾の設計研究会」
http://www.museum.kit.ac.jp/index.html
・・・「博物場」廃止後、1917年(大正6)3月15日「商品陳列所」が再建(移転)されましたが、時期同じくして★「懐徳堂」もこの地に再建されています。
【重建懐徳堂】(1916~1945)
「懐徳堂研究センター」560-8532豊中市待兼山1-5/06-6850-6111
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitoku-c/index.html
1724年(享保9)大坂の商人たちが学問所「懐徳堂」を中央区今橋に設立。
1869年(明治2)明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、閉校。
1916年(大正5)★「博物場」廃止後の府有地を無償で借り受け、西村天囚(1865~1924)らにより「重建懐徳堂」を再建。
http://kaitokudo.jp/byobu/history/11.html
1945年(昭和20)3月14日の大空襲で焼失してしまいました。
1949年(昭和24)空襲により講堂などを失った重建懐徳堂では、罹災を免れた書庫内などで講義を継続していましたが、戦後の混乱期に独立した運営を続けることは困難でした。折しも新制大学としての大阪大学に法文学部が設置されることとなり、財団法人懐徳堂記念会と大阪大学との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の資料等3万6千点と職員(書記)を大阪大学へ移管し、重建懐徳堂で行われていた講義等も引き続き行っていくことが確認されました。
2000年度(平成12)から始められた懐徳堂資料の総合調査により、重建懐徳堂の詳細な設計図面が確認され、当時の設計・施工者である★竹中工務店との交渉の結果、50分の1サイズの精密な復元模型を1基、100分の1サイズの模型を2基、大阪大学に寄贈していただきました。