・・・「能舞台・能楽堂(演能場))」について。1913年(大正2)末には「博物場」は撤廃されることになり、翌年「商品陳列所」となりました。しかし、付属建物である「茶室・能舞台・集楽館」は残りました。その後、「能舞台」が★天満宮に移築されたのは1927年(昭和2)です。1913~1927の経緯について、少し書き足しておきたいと思います。
★「近代大阪の演能場(著:関屋俊彦/関西大学教授)」より
1919年(大正8)に★「大阪能楽殿」が建設されてからは、段々利用度が減じて、いささかもてあまし気味になったところへ、土地の所有者の大阪市から適当な地への移転を働きかけられ、種々物色して最後は引き取ってくれるところには無償でも、とまでいっていたが、それでもうまくゆかなかった。それは移転費に思わぬ費用がかかるからであった。こうしているうちに紳士連中の内の★渋谷利兵衛とか★生形貴一というような好事家の世話で、天満天神宮へ移すことになりもその費用捻出のために、素人による名残り謡会を催し、その収益によってようやく移転した。これが現在の天満宮の舞台である。残念ながら最近は使用されておらず、昔を知るものにとっては、なげかわしい有様になっている。因みにこの費用は2万円くらいだったようだ。(沼艸雨「大阪の能」)》
【沼艸雨】(1906~1992)
昭和期に京阪を中心とする能・狂言の舞台について、多くの評論を発表し、能楽公演のプロデュースも手がけた能楽評論家。
【渋谷利兵衛】 http://www.shibutani.net/
541-0043大阪市中央区高麗橋1-3-18/06-6231-7131
【生形貴一(自徹斎貴一)】(1880~1966)
1901年(明治34)生形貴一が表千家入門。先祖は代々大和郡山藩柳沢家の家老で、祖父に当たる貴治の時に明治維新を迎えました。貴治は郡山城を官軍に明け渡す役を果たした後、大阪に出ました。貴一は10歳の時に父省庵を失い、祖父の貴治に育てられました。一時上京しましたが、20歳の頃病気で帰阪し茶の道に巡り会いました。碌々斎宗匠より皆伝を授けられていた沼野晋屋氏に学び、当時の茶友には惺斎宗匠の弟様に当たられる平井利兵衛氏、惺斎宗匠の義弟に当たられる平井利助氏がおられたと聞いています。当時大阪の表千家入門者は30人くらいだったということです。碌々斎宗匠が隠居され、惺斎宗匠が家元を継がれていた頃です。1905年(明治38)の千家の火災の後しばらくは祖堂の道安囲の席で5~6人で稽古をしたということです。1909年(明治42)に貴一は意を決して玄関に入りましたが、身元引受人は平井利助氏と樂弘入氏で、当時の玄関は3人以内であったと聞いています。この頃「望棗」が出来ていますが、1個につき当時100円の費用が必要で、その制作費用調達のために貴一が大いに奔走したと聞いております。その後大徳寺聚光院昭隠老師に参禅得度し「朝宗庵大法自徹居士」の号を賜り、大正2年(1913)に大阪に戻り、以来表千家の発展に尽力し、1949年(昭和24)12月28日、即中斎宗匠より皆伝を賜りました。
■「大阪能楽殿跡」
543-0033大阪市天王寺区堂ヶ芝2-16-24「大阪市立天王寺保育所」06-6771-0260
能楽は江戸時代まで猿楽と呼ばれ、幕府や諸大名の庇護下にありました。そのため明治維新を迎えると一時衰微することとなりましたが、能を好まれた英照皇太后(明治天皇の嫡母)のために岩倉具視らによって復興がはかられます。明治24(1891)年に皇太后が行啓された造幣局にも、泉布観の日本庭園内に立派な能舞台がもうけられていました。そうして大正8(1919)年、当時日本一の規模を誇る能楽堂が現在の天王寺区堂ヶ芝2丁目に出現します。「大阪能楽殿」がそれです。
建設したのは能楽師★手塚(大西)亮太郎(1867-1931)で、交流のあった住友吉左衛門友純・野村徳七・伊藤忠兵衛ら関西財界人の支援を受け、起工から約3年を費やして完成させました。なかでも★住友家は建設用地を提供し、建設費用を募る労を執るなどの支援をしました。能楽殿は敷地が737坪余、1階の建坪が345坪という規模で、平見所(客席の桟敷)が1・2階合わせて145箇所あり、それに加えて貴賓室・特別室・椅子見所が備わっていました。しかし、こうした規模を持ちながらも経営は順調とはいえず、昭和14(1939)年には閉鎖に追い込まれてしまいます。そして、日本一といわれた能楽殿の建物も昭和20(1945)年6月の大阪大空襲により焼失し、今現地でそれを偲ぶことのできるものとしては写真の顕彰パネルしかありません。
今日、大阪の能楽界は大変活気があります。大槻能楽堂能舞台(昭和10年)や山本能楽堂(昭和25年)は国の登録有形文化財の建造物となっています。梅雨の季節、しっとりと能楽鑑賞などいかがでしょうか。(大阪市教育委会)
【住友吉左衛門友純】(1865~1926)
。明治26年4月、住友15世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。茶人、風流人としても有名でのちに春翠と号した。明治26年4月28日相続の式をあげ、以来家業を継承して、別子銅山の鉱業を経営し、神戸市に銅貿易をなし、また再製茶及び樟脳製造業を行い、滋賀県坂田郡醒ヵ井村において生糸業を営む、広瀬宰平が総理人としてあり、実際の経営に当たるが、友純は別子銅山を巡視し、各社を視察し、庄司炭坑を買収した。住友家では明治28年には本店を富島町より中之島5丁目に移し、同所に住友銀行を開業し、神戸支店、川口、兵庫出張所をおいている。39年1月、実兄の西園寺公望は内閣総理大臣となる。
◆【大阪歴史博物館】◆
●特集展示「修復品・新収品お披露目展」
大阪歴史博物館では、平成25年4月10日(水)から6月10日(月)まで、8階特集展示室において、特集展示「修復品・新収品 お披露目展」を開催します。博物館が所蔵している資料は長い年月を経たものが多く、表面がひび割れしていたり、錆や汚れによって状態の良くないものもあります。こうした資料を修復し、将来に伝えていくことは博物館の重要な仕事のひとつです。また、痛んでいる資料を修復することによって、広く公開することも可能となります。今回の展示では、修復を終えた資料を展示し、博物館のもつ「資料の修復・保存」という役割について紹介します。また、あわせて近年当館の所蔵となった資料についてもお披露目します。
★「大阪能楽殿」関係資料
大阪能楽殿は1919年(大正8)天王寺区堂ヶ芝(現在の天王寺税務署あたり)に能楽師★「手塚亮太郎」が関西の財界の協力を得て建設し、当時日本一と称された。後に手塚家の管理を離れるが、1945年(昭和20)6月に空襲で焼失するまで存続した。本資料群は、大阪能楽殿とその建設にかかわった手塚家の関係資料である。図面は建設前の1916年(大正5)に作成されたもので、当時の威容を伝える。
【大西(手塚)亮太郎】(1866~1931)
昭和初期の能楽シテ方観世流。関西観世流の重鎮。大坂生まれ。大西寸松の娘しづ子の長男。手塚家へ嫁した母が離縁して大西家へ帰り、亮太郎も長く大西姓を称した。幼少から祖父寸松や叔父閑雪の薫陶を受け、初舞台は明治3年(1870)「大仏供養」の頼朝。少年時代に上京し、二十三世観世清廉・初世梅若実・梅若六郎(後の観世清之)に師事。明治23年に帰阪後、大阪・神戸に3つの能舞台を建て流勢拡張に尽力。大正8年(1919)に建てた★「大阪能楽殿」は全国の個人所有舞台中に冠絶するといわれた。大西亮太郎は、当時、料亭「なだ万」が財界巨頭の社交クラブのようになっていたところに目をつけ、常にここに出入りしてそれらの人々と親交を結び、ついに小西新右衛門(業精)や久原房之助らの援助を受けるようになったといわれている。のちには住友吉左衛門、伊藤忠兵衛、野村徳七、殿村平右衛門、弘世助太郎、なだ万の楠本善七らの支援も受けている。「大阪能楽殿」の完成は、大西亮太郎の努力もさることながら、これら財界の奇付ででき上がったものである。住友吉左衛門は1000坪の土地を無償提供し、財界人がその建設費のほとんどを寄付している。★小西新右衛門・業精も、この大阪能楽殿でしばしば舞っていたようである。大西(手塚)亮太郎は、生涯に13箇所もの能舞台を作ったと言われています。養嗣子の手塚貞三(後の雅三)は1940年(昭和15)に大阪能楽殿を手離し、孤高の生涯を送って46年に没した。
【料亭「なだ万」】
創始者である灘屋萬助は、出身地である長崎の卓袱料理と漢方の知識を元に、長崎料理を大阪風にアレンジした料理屋を1830年に大阪で開いた。そして1871年に北浜で「灘萬楼」を開業した。明治中期には現代のスーパーの嚆矢といえる総合食料品店も開き、当時まだ珍しかったパンを販売した。料亭の灘萬は評判を呼び、政財界の要人や文豪らに親しまれ、その作品にも登場した。
《NEWS》2014.11
アサヒビールが老舗料亭のなだ万(東京都新宿区)の買収を決めた。和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、改めて世界的に注目されるようになる中、海外でも出店して高いブランド力をもつ「なだ万」を取り込むことで、海外でのアサヒブランドの浸透と事業強化を図る狙いがあるようだ。アサヒビールは2014年12月にもなだ万創業家から発行済み株式の51.1%を取得する予定。買収額は明らかにしていない。これまでも居酒屋チェーンやファミリーレストランに出資し、外食企業との関係強化を進めてきたが、買収に至ったのは今回が初だという。
【大阪能楽会館】
530-0015大阪市北区中崎西2-3-17/06-6373-1726
http://nougaku.wix.com/nougaku
大阪の観世流シテ方の名家・大西家の本拠となる能舞台。「大阪能楽会館」は1959年(昭和34)3月に能楽専用のホールとして誕生しました。総檜造りの本舞台(36m2)に橋掛りを施し、白州が舞台を囲む伝統ある能舞台です。鏡板に描かれた老松は、優れた能画を残し数多くの鏡板を手がけた★松野奏風氏によるもの。また、大きな特徴として目付柱・脇柱の取り外しが可能になっています。大西家や大阪観世流の催しが中心だが、茂山狂言会など、狂言公演も数多く開催されている。