博物場(14) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大阪府全志(著:井上正雄)】

資料収集以来13年の歳月をかけ大正11年1922刊行された本書は、大阪府全域をその対象とし、各郡市町村の成り立ち、各町・各村など小区域ごとの支配関係や区画の変遷、社寺仏閣・名所旧跡の由来を網羅、地誌類の文献としての価値は非常に高いものである。

〈巻之一〉大阪府管地の分合/大阪府制度の変遷1264頁

〈巻之二〉国郡市町村志(摂津国 大阪市 東区 南区 西区 北区)1314頁

〈巻之三〉国郡市町村志(摂津国 東成郡 西成郡 三島郡 豊能郡)1440頁

〈巻之四〉国郡市町村志(河内国 南河内郡 中河内郡 北河内郡)1568頁

〈巻之五〉国郡市町村志(和泉国 堺市 泉北郡 泉南郡)1088頁

〈附図〉12葉


ぜんし1


大正1913末に至り大阪府は当場敷地内に★「府立商品陳列所を建設するに決しければ、従来存したる建物等の多くは撤廃せられ、大正31914)9月30日飼養の禽獣は大阪市経営の天王寺公園に引渡されて、現在当場に付属せるは能楽堂」「集楽館及び茶室のみとなれり。

・・・やがて「博物場」は「商品陳列所」へと変貌をとげていくわけですが、その前に★「北の大火」で焼失した★「初代商品陳列所」について調べておきたいと思います。


ぜんし2


・・・木造建築がほとんどで「消す」というより、どこで「食い止められるか」という感じてす。


大阪府立商品陳列所

1890年に開所した本邦初の商品陳列所である。欧米の商業博物館を模範として計画されたが、初期においては工業試験を、移転した大正期以後においては発明考案の補助を行うなど、市民の技術革新をも支援した。大阪府立商品陳列所がこれらの活動を行うに至った背景には、農商務省が「興業意見」に示した勧業政策の存在を指摘できる。商工業ミュージアムともいえるその活動は、当初農商務省が思い描いていた理想の陳列所像であり、近代日本の技術革新を間接的に支えた重要な存在であったといえる。

明治23年1890)「大阪府立商品陳列所は貿易を主眼に置いた商業博物館を模範としながら工業奨励をもうひとつの使命として、堂島河畔「朝館」跡の地に華々しく開所した。

明治32年1899陳列所本館の一室であった試験部が、構内に独立した建物を建ててその用に充てた。

・明治33年1900試験部「工業試験部」と名称を変えている。大阪府立商品陳列所の工業補助から生まれたものとして「模造真珠」を挙げることができる。これは「人造真珠」として改良を重ね、現在に至るまで泉佐野市を中心とした地場産業として続いており、大阪府立商品陳列所で生まれた新たな技術が、地域産業に確かな足跡を残したといえる。


明治42年1909)7月に大阪市北区を襲った大火により不運にもその大部分を焼失し、仮事務所への移転を余儀なくされる。仮事務所では事務を行うに留まり、陳列所本来の業務は停滞した。大正に入り新知事の就任を期としてようやく再築計画が動き出し、事前調査の後、再築される運びとなった。

大正1917、新しい陳列所はかつての土地ではなく商工業の中心地ともいえる本町橋東詰の★「府立博物場の地に新築移転し、陳列所として再開を果たした。移転先の立地を巡っては陳列所の主な利用者である商工業者の利便性が考慮されている。


ぜんし3


五代友厚製藍所西朝館跡碑」北区堂島3-1

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009886.html

五代友厚(18351885)は慶応元年(1865)ヨーロッパ諸国を視察、貿易に関心をもち一時官途につくが、大阪に来てからは鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。当時我が国製の藍は粗悪で、インドからの大量輸入に頼っていた。それに対抗するため製法に研究努力を重ね、明治年に従業員300名を越す近代的製藍所★「朝陽館を建設した。「西」とついているのは、東京の朝陽館と区別するためです。明治天皇の行幸もあり、その碑も並んで立っています。その製品は欧米各地に輸出され、明治10~11年ごろ最盛期を迎えた。しかし経営的にはあまりうまくいかず、弘誠館(鉱山会社)の儲けも注ぎ込んだのですが、明治16年に閉鎖となりました。五代は製藍業にたいそう力を入れていて、開業年に生まれた次女に藍子と名付けたほどでしたから、閉鎖は残念な出来事だったと思います。ちなみに、この場所はもと大村藩の蔵屋敷があったところで、「大村藩蔵屋敷跡」の碑も建てられました

・・・中之島にあった「豊国神社」(秀吉像)も転々としていますね。


【豊国神社】

明治元年閏月(1868.5)明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に建立の御沙汰がある。

明治12年(1879)11月京都・豊国神社大阪別社として創建。当初は大阪府北区中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座した。

大正元年(1912)中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側へ遷座。

大正10年(1921)京都・豊国神社から独立、府社に列格する。

昭和36年(1961)現在地の大坂城二の丸へ遷座。遷座前の社殿は豊中市服部住吉神社に移築されている。

平成19年(2007)4月17日、秀吉像を復元(彫刻家中村晋也作。昭和18年(1943)に鉄材供出されて以来64年ぶり)。


ぜんし4


【山崎の鼻】

中之島を開発したのは材木商で淀屋の元祖淀屋常安であるといわれます。彼は大阪落城のあとの元和年間(1615~1624)に、あしの茂っていた中之島を切り開き、後の蔵屋敷建設の基礎を作りました。江戸時代の中之島には諸藩大名の蔵屋敷が建ち並び、延享年間(1744~1748)に大阪にあった主要蔵屋敷89のうち36が水運の便に恵まれた中之島にありました。当時の中之島の東端は現在の中央公会堂あたりまでしかなく、その付近に備中成羽藩の山崎氏の蔵屋敷が建っていたのでこの中之島の東端は「山崎の鼻」と呼ばれていました。現在のように中之島が天神橋までのびたのは大正時代になってからのことです。明治維新後、政府は蔵屋敷のあとを官庁、学校、病院などにあて残りを民間に払い下げました。明治の終わりから大正にかけては日銀大阪支店、中之島図書館、中央公会堂、旧大阪市庁舎などの四大名建築といわれる中之島を代表する建物が建てられました。

・・・古写真を見ると「豊国神社」とともに「中之島図書館」も写っています。


ぜんし5


大阪府立中之島図書館

http://www.sumitomo.gr.jp/contribution/index01.html

明治37年(1904年)月、住友の寄贈になる「大阪図書館」(当時の名称)が完成、開館しました。石造り三層、銅葺きのドームがそびえる重厚な建物で、建築を担当したのは、住友臨時建築部の少壮気鋭の建築家野口孫市(技師長)と日高胖(技師)。住友家第15代住友吉左衞門友純は、江戸時代以来住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝のしるしとして、この図書館建物と図書購入資金を寄贈したのです。さらに、本館が手狭になったため、大正11年(1922年)左右両翼部分を増築寄贈し、ここに今に見る「府立中之島図書館」が完成しました。この建物は明治の名建築として、昭和49年(1974年)国の重要文化財の指定を受けました。完成後約100年を経て、なお現役の図書館は、静かで便利な立地条件も手伝って、研究者や本を愛する人たちに親しまれています。