・・・話題でもありますので、
【参考】大阪市長
・1889大阪市発足、府知事と市長兼務。
・1898市制特例廃止し市役所設置。住友吉左衛門派おさえ、★「田村太兵衛」初代市長に就任。1901年(明治34)8月10日辞任。
・1947公選制初代公選市長に近藤博夫(第11代)が就任。
・2014.3月24日就任した(2期目)★「橋下徹」は19代目、2015(平成27)12月18日任期満了。20代目は「吉村洋文」。ちなみに銅像があるのは、第6代「池上四郎」第7代「關一の二人です。
【池上四郎】(1857~1929)
・1857会津藩の下級武士の子。1874上京。1895年(明治28)神田警察署長、翌年・麹町警察署長に就任。1901年(明治34)西郷従道に認められ大阪府警察部長に栄転。1913年(大正2)★第6代大阪市長に就任。飲料水確保のため柴島(現大阪市東淀川区)に水源地創設。1915年(同4)には★「天王寺動物園」開園。公設市場の設立、数々の功績を残しました。
【關一】(1873~1935)
徳川家達の駿府移封に伴い静岡に移った旧幕臣・関近義の長男として生まれ、1893年(明治26)高等商業学校卒業後、大蔵省、商業学校の教諭等経て、同校教授となる。3年間ベルギー留学。1914年(大正3)大阪市助役、大正12年から11年余★市長を務めた。築港事業、鉄道建設など整備をはかるとともに、公設市場、市営住宅、★「大阪商科大学」の設置などの都市社会政策に尽力。昭和9年(1934)貴族院議員。法学博士。
・・・気になって、歴代「博物場長」も調べてみました。
【寺西易堂鼎】(1824~1916)文政7年~大正5年
漢学者。名は鼎。名古屋の人。村瀬太乙・林鶴梁・藤森行庵等に学ぶ。「大阪府勧業課長」★「大阪博物場長」等を務める。のち大阪船町橋に私塾「愛身学舎」を設け門下の育成。また南画・書を能くした。
【天野皎】(1851~1897)嘉永4年~明治30年
★場長:1885年(明治18)4月~1890年(明治23)1月まで
神戸師範学校長、★「大阪商業講習所」長(1882年1月~1884年3月)、★府立大阪博物場長、大阪朝日新聞社記者を経験。
《参考》1995「近代日本の空間プランナーたち」(著:橋爪紳也)
観光産業戦略研究所 http://www.rifti.21c.osakafu-u.ac.jp/
・1875年(明治8)~当初、博物場は内務省★管轄下、委託で府が運営。
・1884年(明治17)府に移管され知事・建野郷三は、大幅拡張し総合的文化センターに再整備。その陣頭指揮が★天野皎である。1886隣接する地所780坪を買収、「事務所」「物品陳列所数棟」「商標観覧所」などをあらたに建設。1888大阪初の「美術館」「書籍館」を落成、また「動物園」を拡充するなど博物場リニューアルを推進。
《参考》大阪商業講習所
https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/about/university/history
「大阪市立大学」の源流である「大阪商業講習所」は、1880年(明治13)に大阪商法会議所(現大阪商工会議所)や株式取引所(現大阪証券取引所)の生みの親であり、「近代大阪経済の父とも言われる★五代友厚をはじめ、当時の大阪財界有力者16名によって創設されました。
【平瀬露香】(1839~1908)天保10年~明治41年
★場長:1892年(明治25)8月~1894年(明治27)10月
・・・趣味多き人ですから、いろいろな情報がありました。
《参考》「大阪南宗画会」「日本美術協会大阪支会」
1898「日本中央絵画会」解散、南画家★平瀬露香、矢野五州、姫島竹外ら「南宗画会」を結成のち「大阪南宗画会」。1891日本美術協会大阪支会」結成/会長:平瀬露香。1898事務所:大阪市東区大手通2丁を★「泉布観」に移転。1900第1回「全国南画共進会」開催。
【NEWS】2015.6.24大阪日日新聞より「大阪市史」の誕生
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/page/0000106885.html
1901(明治34)~1909(同42)日本最初の自治体史「大阪市史」編さん、1915(大正4)年完成。第5回内国勧業博覧会の大阪誘致が決まり、大阪市アピールのため歴史学者★幸田成友(幸田露伴の弟)を招へい。史料がそろっておらず地道に探し、それを筆写する作業。藤沢南岳(儒学者)小林利恭(市会議員、阿弥陀池大黒堂当主)★平瀬露香(茶人・銀行家)顧問たちと古書店の鹿田静七ら史料所蔵者や旧家など多くの市民が協力。
《参考》「日本紡績(社章由来)」
1889年(明治22)有限責任会社「尼崎紡績」創立(のち株式会社)、初代社長★広岡信五郎。尼崎紡績・摂津紡績が合併、小山健三命名の「大日本紡績」となる。社章は、同社中心の大阪市西区靱の有力者達が★平瀬露香に意匠化を依頼。大日本紡績・菊池社長はこの意匠を採用し、査業課長長谷川直磨に命じ、課員池田角蔵が製図法を確立した。
・・・なんと「尼崎紡績」初代社長★広岡信五郎は「広岡浅子」の夫です。
【田村太兵衛】(1850~1927)
心斎橋呉服商★丸亀太兵衛(田村氏)長男、家督相続。大阪市制第1回大阪市会議員、大阪商業会議所副会頭。1898年(明治31)大阪市長選で★初代大阪市長。就任と同時に丸亀屋を★「たかしまや飯田新七呉服店」に譲渡。1901年(明治34)辞任後★「大阪博物場長」を務め、趣味の美術工芸品を収集。「かくすもんやない。いつでも誰でも自由に見られるようにせなあかん」と貴重な文化遺産を集め、大阪博物場は、図書館・博物館・美術館・資料館を兼ねた文化・文明の大サロンとなったのです。
・・・調べれば調べるほど、いろんな人たちがつながり、協力して「大大阪」を創造してきたことがわかります、本当にスゴイことです。