博物場(12) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・またまた話が大阪をはずれてしまいましたので、「博物場能楽堂」変遷を「近代大阪の演能場」(著:関屋俊彦)に照らしながら再度整理しておきます。

関屋俊彦】(「大和座」同人)

http://homepage3.nifty.com/yamatoza/contents/member/personal/sekiya.html

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~uranishi/page015.html

関西大学文学部教授。文学博士。藝能史研究会・日本笑い学会所属。能楽学会設立に参画。

本学(関西大学)入学以後、能狂言に興味を深め、中世芸能を専攻して大学院へ。在学中より藝能史研究会に加わって本格的な研究活動を始めた。1997年博士課程単位取得と同時に武庫川女子大学に赴任、79年より本学専任。文学博士。初の論文「佐久間寛台と『謡言粗志』」(関西大学『国文学』、75年)は、加賀藩士佐久間寛台その人と大著『謡言粗志』の今日見られる最も集約的な研究として高く評価されるとともに、多くの資料を的確に操作して年譜考証という実証学の成果を見事に示している。94年に『狂言史の基礎的研究』(和泉書院)を出版。又、『天理本狂言六義』(共著・三弥井書店、94~5年)の注釈、関西大学図書館影印叢書『勧進能并狂言尽番組』(95年)『能面図』(96年)の編集を担当。最近では禁裏ご用と狂言師の関係、大蔵流の総合的研究に的を絞っている。

【参考】「大和座狂言事務所狂言大和座)」

565-0842吹田市千里山東2-3-3/06-6384-5016

日本笑い学会」 http://www.nwgk.jp/index.html


せきや1


明治元~10

・明治初頭に狂言師「鷺流」(鷺源右衛門)所有の舞台があった。

・明治8年11月、府庁(旧西町奉行所)を改修し「博物場」を開場する。

・明治10年(1877)頃、持続困難で篤志家により「生國魂神社」(鷺流専有)境内に移された。[建坪31坪9合5勺、舞台15坪9合、橋がかり10坪5合、楽屋6坪。舞台桁行4間半、梁行3間、高さ2丈、屋根18坪9合、但瓦葺。橋がかり桁行7間、梁行1間半、高さ1丈6尺、屋根18坪、但瓦葺。]明治12・13年頃にはあまり用いられず。

【参考】生國魂神社大阪薪能

543-0071大阪市天王寺区生玉町13-906-6771-0002

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000183.html

薪能は奈良の春日大社への奉仕として、興福寺の南大門の芝の上で薪明かりの中で能を舞ったのがはじまり。「大阪薪能」は、約450年前の天文15年に生國魂神社の御遷座を祝い演能されたという故事にならい、大阪薪能委員会・能楽協会大阪支部の共催で昭和32年から開催されている。「かがり火」の明かりによって演じられる薪能。そこに映し出される幽玄・神秘の世界は、観る人の心をとらえ、深い感動を与えてくれる。大阪の夏の夜を彩る風物詩としてすっかり定着している。


せきや2


明治1130

・明治12年「大阪博物場」と改称する。

・明治16年(1883)5月6日、中之島豊国神社西隣に明治紀念標が建立・落成し、この日より3日間西南戦役戦死者の弔魂祭が執行された。

・明治17年(1884)3月「府立博物場」を移し「美術館」をつくり地所を拡張する。

・明治17年(1884)9月「高村太左衛門(金剛流)」等有志の尽力で中之島「明治記念標」構内に移築(新築)された。10月11・12日舞台披をし付近に柳が多いことから「宮崎鉄幹」(のち博物館長)が「翠柳館」と名付ける。

※「陸軍」が買って「招魂社」(のち護国神社)に移したので「招魂社舞台」とも呼ばれた。「明治紀念標」「豊国神社」境内と同様の意味と思われる。

・舞台の鏡板の松は「狩野永祥」が描いた。平素は掛戸を下ろして稽古のみに使用。

・「橋岡の観世社」に対して「南陽社」(金剛流・平瀬露香)と呼ばれる。



明治28年(1895)9月1日大阪中之島にあった翠柳館能舞台を借りて、「ゼルマン風流ビール会」と言う名称のビアボールを季節限定開設した。

・明治29年(1896)4月、博物場内の能楽堂は取り壊すことになる。

・明治30年(1897)平瀬露香により「能楽堂」の改築。


せきや3


明治31

・明治31年(1898)12月、「能楽堂」(新築)落成。[総工費5600円、建坪は舞台15坪2合、橋がかり9坪6勺。]北側に御殿風建築「衆楽館」がありその広間を「見所」としていた。

・明治33年(1900)「大阪能楽会」設立、「府立博物場能楽堂」と称する。

・明治35年(1902)「明治紀念標」が「偕行社」(のちの追手門学院小学校)構内に移される。

・明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会より「陳列所」「売店」「動物園」をもって構成構成される。


せきや4


大阪府全志」著:井上正雄より

大正1913末に至り大阪府は当場敷地内に★「府立商品陳列所を建設するに決しければ、従来存したる建物等の多くは撤廃せられ、

・大正31914)9月30日飼養の禽獣は大阪市経営の天王寺公園に引渡されて、現在当場に付属せるは能楽堂」「集楽館及び茶室のみとなれり。


せきや5


・昭和2年(1927)「能楽堂」は「大阪天満宮」境内に移築された。

・昭和53年(1978)さらに戦災はまぬがれたが利用少なく、豊中「服部神社」境内に移された。