★1880年(明治13)「橋岡忠三郎・雅雪」は400坪の土地を購入し、新たに「能舞台」をつくった。同時に「観世社」を組織。この舞台には、「大西閑雪」らも参加して演能に勤めている。ここで能の催しがあると、寄せかける人の波は内外にあふれたという。こうして大阪の能楽も次第に発展し、「能役者」「太夫」といわれた人々は、このころから★能楽師」と称されるようになっていく。
【大西閑雪】(1841~1916)
大阪の人。本名は鑑一郎。はじめ、京観世★岩井派の名人と言われた父「大西寸松」より稽古を受け、のち江戸に出て「観世清孝」に師事した。安政2年(1855年)大坂に戻り、岩井七郎右衛門に謡を、立方を片山九郎右衛門に学ぶ。明治維新後は主に京阪地区で活躍し、明治10年の明治天皇大坂行幸の天覧能では「橋弁慶」を演じた。多くの門弟を育てるなど京阪能楽界の復興に尽力し、33年観世流の家元観世清廉より雪号を許され、以後は閑雪を名乗った。狂女物と現存物を得意とした。大西家では代々、新右衛門を襲名する。★「小西新右衛門」と同じ名前なので、「小西さんに物心両面でたいへんお世話になっていたので、祖父は新右衛門という名を遠慮して、鑑一郎と名のり、61歳で(観世家から)雪号を許されてから、閑雪としていた」と、孫に当たる能楽師★大西信久(7代)が語っている。大正5年(1916)歿、77才。
【11代小西新右衛門・業茂】(1851~1906)
摂津国伊丹の酒造業者小西家は大名貸も行う豪商であった。業茂は明治11年(1878年)、11代目小西新右衛門を襲名し家督を継ぐ。その後日本銀行監事、真宗信徒生命保険取締役社長、日本貯金銀行頭取、起業銀行監査役、伊丹銀行筆頭株主、起業貯金銀行監査役を歴任する。同時に鉄道事業に参画し、山陽鉄道、川辺馬車鉄道(小西壮二郎名義)、摂丹鉄道(小西壮二郎名義)、阪鶴鉄道、阪神電気鉄道に発起人として出資した。
江戸時代、「伊丹諸白」の名醸地として栄えた伊丹。その美酒にひかれて多くの文化人がこの地を訪れ、多くの文学や芸術作品を残しています。伊丹酒を好んだ詩人・頼山陽や、伊丹酒のとりこになって伊丹に住み着き、伊丹風俳諧の祖となった俳人・宗旦、山陽とともに伊丹を訪れた画人・田能村竹田などです。いっぽう、伊丹の酒屋の旦那衆もまた、風雅をたしなみ、時には彼らの活動を支える、文化の担い手でもありました。蕪村の門人として活躍した酒造家・山本東瓦や、山陽や竹田を迎えた岡田糠人などです。近代には、能楽の再興に尽力した酒造家・小西新右衛門(業茂)や柿衞文庫の創設者岡田利兵衞(柿衞)などがいます。
小西新右衛門・業茂がいつごろ能を始めたのかは定かではない。おそらく、「揚武会」を興した明治7年前後のことと思われる。観世家22代家元・観世清孝との出会いで、本格的な習い事に発展していったようである。業茂は観世清孝が関西にやって来るときは、一切の面倒を見て家元に尽している。自邸に能舞台をつくるほどの演能者で、プロに混じって舞うほどの技を身に付け、★大西信久によると、「素人としては仲々よくできたかたで、玄人の公式能にも西東太郎の舞台名で出演された」という。
◆【白雪ブルワリービレッジ長寿蔵「ブルワリーミュージアム」】◆
664-0851兵庫県伊丹市中央3-4-15/0727-73-0524
http://choujugura.com/museum.html
日本酒とビールの博物館。1995年に開館した。施設は江戸時代建築の酒蔵を再生利用している。「日本の酒」ゾーンでは杜氏
や蔵人が使用した古来の酒作りの道具200余点を展示するとともに、日本酒の歴史、清酒発祥の地である伊丹の酒造りの歴史等の紹介、「白雪の時空舞台-マジカル・シーン・ビジョン」ゾーンでは400年以上の歴史を有する「白雪」の伝統的な酒造りの手法を立体映像として鑑賞することができる。「ミュージアムライブラリー」ゾーンでは、日本酒や地ビール、ベルギービールのライブラリを閲覧することができる。
【参考】幕末のビール復刻版「幸民麦酒」
http://www.konishi.co.jp/product/detail.php?id=3&did=118&c=30001
日本で最初に麦酒が造られた場所は、長い間不明でした。しかしこの度古地図からその場所が見つかり日本橋茅場であることが判明しました。約160年間の謎が解けたのです。このビールを造ったのが、日本化学の祖と言われる蘭学者★川本幸民です。川本幸民は、幕末の1853年、ペリーが浦賀に来航した際、英語の通訳として黒船に乗り込み、艦上でビールを振舞われその味に魅せられ、自宅にカマドを作ってビールを醸造したと言われています。幸民麦酒は、この貴重な文献を基に当時の原材料や仕込道具を研究し、忠実に再現しました。
【大西家(岩井家)】
初代「新右衛門宗明」は、「岩井家」に学んだ人物として記録に残る。1805年に岩井家七代目が歿して岩井家が絶家、その芸風は弟子であった★大西家四代目「寸松」が伝え、★「五代目・閑雪」そして智久氏の祖父★「六代目・新三郎」まで続いた。
●七代目・大西信久(1903~1983)
70年以上の舞台生活でシテ演能は2000番以上になる。昭和54年3月には最難曲といわれる「関寺小町」を大阪で舞って観世流の210曲を史上初めて完能。また日本能楽会理事、能楽協会大阪支部長として活躍、大阪観世会の統率者でもあった。
●八代目・大西智久(1938~)
観世流シテ方。創始250年の★大西家八代目当主。1938年大阪に生まれる。父、大西信久および二十五世宗家観世左近に師事。1941年「鞍馬天狗」花見で初舞台、1944年「俊成忠度」で初シテ。その後、「鷺」「翁」「石橋」「乱」「道成寺」「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姨捨」「檜垣」などを披く。これまでに600番近くを舞い、2009年、舞台生活70年を迎えた。
★1883年(明治16)くらいから橋岡の舞台では催しも多くなり、明治16年7月10日、観世清孝が来阪したときも橋岡の舞台で催された。7月15日にも催され、そのとき大西亮太郎、生一左兵衛、小西新右衛門、観世清孝、観世清廉、浅井織之丞、片山九郎右衛門などの演能があり中之島★「翠柳館」とともに当時中心的な舞台となった。
★1887年(明治20)2月15日には、天皇・皇后両陛下を「大阪偕行社」に迎えて、天覧能が催された。明治天皇がこのように能のほか、弓道、相撲、茶道、華道、歌舞伎、さらには落語などに、天覧という形で芸能復興を促進していくのは、1882年(明治15)以降のことといわれている。大阪で唯一といわれた博物場「能舞台」は大いに使われたが、日露戦争後の好況時には、そろそろそれに替わる舞台が待ち望まれていた。
■「翠柳館」舞台(1884~1902)
★明治初頭、狂言師「鷺流」所有の舞台があったそうですが、持続困難となり有志家に買い取られ、その後「生国魂神社」境内に移されたが、明治12・13年頃から用いられず、さらに高村太左衛門等有志の尽力で中之島に移されました。
【参考】山口県立大学「鷺流狂言特別公演」
http://www.yamaguchi-pu.ac.jp/library/kyoudo/kyogen-performance.html
本学講堂(桜圃会館)における鷺流狂言公演は、平成20年(2008)3月20日の「山口県立大学と鷺流狂言~石川弥一から五十年~ 春の日舞台」から始まったものです。以後、山口鷺流狂言保存会の全面的なご協力のもとに、年1回のペースで開催し、今日に至っています。狂言の上演とともに、演目の解説や当センター所蔵の関係資料の展示を行っており、地域の方々からも好評をいただいています。
★明治17年「翠柳館」舞台として再建。その後、「博物場」内に移された。
【Asahi100、大日本麦酒株式会社三十年史】より
http://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol05.html
日本にビアホールが登場したのは、明治28年(1895)京都で開催された勧業博覧会での事。博覧会場に大阪麦酒が開設した「アサヒ」のビアホールには、平均一日500人の客が訪れたと言う。この盛況に気をよくした大阪麦酒は、続いて同年9月1日大阪中之島にあった★「翠柳館」と言う能舞台を借りて、「ゼルマン風流ビール会」と言う名称のビアボールを季節限定で開設した。ゼルマンはゲルマニアの事で、当時は純ドイツ式ビールが製造されていた。さらに翌29年夏には、能舞台前に大テントを張って、夏季限定「アサヒビール会」の看板を掲げたのである。1897年(明治30)7月20日、中之島大江橋南詰に店舗「アサヒ軒第1号店をかまえ常設営業を開始した。これが、日本のビアガーデンの元祖。
1899年(明治32)には、大阪市内でこのビール会が大流行となった。同じ年、大阪のビール会流行が東京に飛び火して、出来たのが「恵比寿ビール・ビアホール」日本麦酒が、新橋の精養軒の階下を借りて開いたものである。ビアホールと言う名称は、この店から始まったとされる。こちらも大阪同様に人気を博し、いつも満員の様子だった。
【中之嶌誌】より
明治17年に中之島の豊国神社の中に建てられた能楽堂「翠柳館」について、『中之嶌誌』(1937中之島尋常小学校創立65周年中之島幼稚園創立50周年記念会)(1974臨川書店)の「翠柳館」の項目に、「翠柳館」舞台開き能楽会の番組表などの記載がある。また、宮本又次著『大阪経済人と文化』(1983実教出版)に「中之島翠柳館の舞台と博物館の舞台」として、明治17年(1884)の創建から明治35年(1902)の取り壊しまでの経緯が簡単に触れられている。