・・・能を★外交のもてなしとすること自体は、欧米視察後の「岩倉具視」の肝煎りで始まったということではないようです。1869年(明治2)には早くも、外国賓客のために能狂言の催しが開かれました。その年の7月、明治政府は英国ヴィクトリア女王の次男、エジンバラ公アルフレッド王子を迎えます。その饗応に★相撲観戦や★浅草訪問とともに、観能の催しが組まれたということです。さて、話が東京のことになってしまいましたので、大阪へ話をもどしましょう。
■橋岡家「能舞台」/★『東区史』より
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042191
大阪市・旧東区は、古くは難波の宮として、近くは商都大阪の中心として、常に政治・経済・文化の中枢として栄えてきた。『東区史』は1942年(昭和17)に完成し、最高の学問的水準を保つ執筆陣による内容、1084点にのぼる図版等から絶讃を博した。
★1875年(明治8)ごろ養父が★東区平野町に「能舞台」を新築した。★「橋岡忠三郎・雅雪」は、そこに住んで謡曲の指南をしていた。しかし、まだまだ能楽不振のころだったので、子女を集めて習字を教えたりもしていた。その後しだいに能楽も盛んになり、「謡曲の門人に富豪が多かったので、宗家「片山九郎三郎」を京都から呼び、伊丹「小西新右衛門」の後援をえて、当時、大阪で失墜していた「観世流」の名を復活させた。
【橋岡忠三郎・雅雪】(1831~1910)
能楽師(観世流シテ方)。河内国の素封家・藤井家の出身で、謡曲指南の家柄である「橋岡家」に婿入りして6代目を継承した。★大西関雪★恒岡徳(?)と並んで大坂の名手に数えられた。明治42年観世清廉より多年の功労により雪号を贈られ★「雅雪」と号した。
※雪号(せつごう)
能楽シテ方観世流において、隠居後に名のる「雪」字を用いた雅号のこと。主として宗家および分家にしかゆるされず、弟子家の場合には特に流儀に功績のある者もしくは名手の誉れ高い者にかぎられる。
・・・「橋岡家」について調べてみましょう。
【橋岡会】/090-7816-7745
285-0858千葉県佐倉市ユーカリが丘4-1スカイプラザ・イーストタワー3101
http://www.catv296.ne.jp/~hashioka/index.html
●七世橋岡久太郎(1884~1963)
旧姓は乃村。1898年(明治31年)大阪の観世流シテ方★「橋岡雅雪」の後継者となる。のち上京し23代宗家観世清廉に師事。独立後、2代梅若実、観世華雪とともに観世流の発展に尽くした。1961年日本芸術院賞受賞、芸術院会員。淡交会主催。子は橋岡久馬、橋岡久共(のちに橋岡慈観に改名)。
●八世橋岡久馬(1923~2004)
大正12年、七世橋岡久太郎(芸術院会員)の長男として東京に生まれる。重要無形文化財総合指定保持者。昭和2年、能「鞍馬天狗」の花見にて初舞台。昭和40年、フランス政府給費留学生としてパリに在住。昭和42年、観世流欧州能楽団団長として7か国にて公演。以後、北・南米、カナダで公演。平成6年、脳死をテーマにした新作能★「無明の井」を上演し国内外で絶賛を受ける。スウェーデン王国演劇最高勲章受章。大阪府芸術文化大賞をはじめ数々の賞を受賞。平成16年3月19日、肺炎のため逝去。享年80。
【多田富雄】(1934~2010)
免疫学者、文筆家である。東京大学名誉教授。50代になって執筆活動を多く行い始め、『免疫の意味論』(青土社、1993年)で大佛次郎賞、『独酌余滴』(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイスト・クラブ賞、『寡黙なる巨人』(集英社、2007年)で小林秀雄賞を受賞。能の作者としても知られ、自ら小鼓を打つこともあった。謡曲作品に脳死の人を主題にした『無明の井』、朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタインの相対性理論を主題とした『一石仙人』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』がある。前著『脳の中の能舞台』(新潮社)に続いて★2000『アポロンにしてディオニソス橋岡久馬の能』(写真:森田拾史郎)随想集を出す。
●九世橋岡久太郎(1958~)
1958重要無形文化財総合指定保持者・八世橋岡久馬の★長男として生まれる。父の手ほどきを受け、3歳のとき「鞍馬天狗」で初舞台。1967年、8歳のとき観世流のヨーロッパ7か国公演に加わり、「菊慈童」のシテ(主役)を務めた。「鷺」、「道成寺」をはじめ大曲、秘曲等数々の能を勤める。演能と共に国内外の大学、文化団体等にて講師を勤め、平成7年春、九世橋岡久太郎を襲名。
●橋岡佐喜男(NPO法人せんす)
千葉県船橋市夏見4-1-8/047-424-2929
http://www.sense-nohgaku.com/pages/sense/sense.php
故・八世橋岡久馬の★二男として生まれる。能楽の名門・観世流の家系に生まれたが、身内ばかりの狭い世界が嫌で1997年に飛び出した。二つの職場で営業マンとして充実した生活を送り「このままでもいいかな」と思い始めたころ、能楽師として活躍する弟から新しい公演のパンフレットが届いた。裏面にはフランスの最高級シャンパンの広告があった。「外国では650年の歴史を持つ能の人気は高い。そのブランド力を営業マン精神で売り込みたくなった」。2002年、能楽の普及を目指す特定非営利活動法人「せんす」を設立、代表者として全国を回る。
●橋岡伸明
1970故・八世橋岡久馬(観世流仕手方職分能楽師、重要無形文化財総合指定保持者)の★三男として生まれる。1974仕舞「春栄」で、自宅にて初舞台。1981能「枕慈童」のシテ(主役)にて初能。1989海外公演「観世流海外演能団」に参加。以降、国内・海外とも多数の公演に参加する。2002国立能楽堂・橋岡會つくば新春特別公演にて、能「望月」のシテ(主役)を勤める。2004コード会社「エイベックス・グループ・ホールディングス」の株主総会のシークレットライブにて能楽の舞を披露。2010茨城県県民文化センターにて、文化庁「地域文化芸術振興プラン」推進事業主催で舞囃子「桜川」でシテを勤める。取手市井野昌松寺にて「能楽とホタル鑑賞の集い」開催。つくばみらい市在住/090-2404-8513
◆【渋谷区立松濤美術館】◆
150-0046東京都渋谷区松濤2-14-14/03-3465-9421
●百面のかたち-橋岡一路・能面の心と技-
2002年5月28日(火)~7月7日(日)
深い精神性をもち比類ない高き美意識にささえられる日本の能。それを象徴する「能面」は永く伝承され数多くが残されています。現代の能面師橋岡一路は卓越した技量をそなえ、能が伝えてきた心をあらわすべく、名品と言われてきた多くの能面を今日に甦らせてきました。本展は作者の百面の記念となる展覧会です。
【橋岡一路】(1931~)
宝生宗家の座付能面師。1931年(昭和6)に大阪観世の名門★橋岡忠三郎・雅雪の曾孫として生まれた。持病の座骨神経痛のため能家の継承を果たせなかった父泰次郎の悲願は、能家の復興であり、その期待は当然、長男の橋岡さんにかかった。橋岡さんは平成3年春に催した曾祖父、祖父、父の追善能のパンフレットに「能家なれば将来、秘曲『鷺』をも舞わさんものと、その冠を戴き、長男なれば「一路」と命名されました」と記しておられます。橋岡さんは幼くして★橋岡久太郎に入門、七歳のときに仕舞『鶴亀』で初舞台を踏み、能楽師の道を歩み始めた。しかし、戦争で東京は焦土と化し、赤坂にあった橋岡家の能舞台は焼失、世の中は能どころではなくなってしまう。「結局、子供のころから手先のことが好きで、家蔵の面を見よう見真似で刻んでいたこともあって、美校(現東京芸術大学)に進み★畑正吉先生に彫刻の基礎を教えていただくことになったのです」高村光雲の高弟であった畑氏が、最初に橋岡さんに命じたことは、鑿を研ぐことであった。畑氏の紹介で★「鈴木慶雲」の弟子に入り面打師となった。能家の継承を断念し面打ちに精進する橋岡さんに、父は二つの注文を出したという。一つは、天下の名面を五十面打つこと。もう一つは、能面は演者によって舞台に掛けられてこそ生きるもの。能面を商売の道具にしてはいけないというものだった。
【鈴木慶雲】(1895~1971)
明治の近代彫刻家★高村光雲に師事し。仏師から面打師になっている。「宝生流」の専属能面師で、★「能の面」の著者であり「写し」に徹することが面打師の生命であると主張している。