・・・「山本能楽堂」は、1927年(昭和2)創立し戦災で焼失、1950年(昭和25)再建されました。さて、「能舞台・能楽堂」の歴史を詳しく調べてみます。
【明治演劇史】著:渡辺保より
「大久保利通」が進言して実現した「大阪行幸」によって天皇の生活も身体も一変。陸海軍の統率者として、西欧式近代国家の君主として、京都の宮廷生活と別れを告げ、軍服に身を固めた逞しい青年にならなければならない。その手始めとして乗馬の訓練を受ける。この天皇の身体のあり方にこそ、その後の日本文化の近代化を象徴する「和魂洋才」という二重性が含まれている。当時の4つの演劇【能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎】も、その近代化の波に曝される。最も激しく波を受けたのは、幕府の式楽として、或いは古典劇として確立されていた「能狂言」で、生活を保証され役者は存続の危機に直面する。大阪の人形浄瑠璃は、一挙に隆盛となるが、その理由は不明。歌舞伎は、江戸、京都、大坂とも不況と政情不安から不入りだったが、隔離された密室の中でしたたかに生きる余裕とエネルギーを持ち続けていた。
【渡辺保】1936年東京生まれ。慶應大経卒。東宝演劇部企画室を経て、現在演劇評論家。放送大学客員教授。『女形の運命』で芸術選奨文部大臣新人賞。『忠臣蔵』で平林たい子文学賞。『娘道成寺』で読売文学賞。『四代目市川團十郎』で芸術選奨文部大臣賞。『黙阿弥の明治維新』で読売文学賞。
【岩倉具視邸天覧能】
★1871年(明治4)条約改正交渉のための使節団洋行の際、オペラハウスの観劇に刺激され、その風習を輸入しようとすれば能楽しかないと思い、帰国後西南戦争前夜の政治的危機の中で、「天覧」という看板を掲げることによって天皇制国家の文化的イメージを作ろうとした。
★1876年(明治9)天覧能が3日間にわたって岩倉邸で挙行される。岩倉が「宝生」に心酔し弟子となったほか、「能舞台」の建設等振興策を進める。英照皇太后の後見によって、岩倉が能を新政府の式楽にすべく運動するが、天皇が万人受けしないとして反対。
【芝・紅葉館】
★1881年(明治14)2月15日に、300名限定の会員制料亭として設立され、豪商「中沢彦吉」等が社長を務めた。1890年(明治23年)に「鹿鳴館」がわずか7年で消滅した後は、条約改正を睨んだ外国人接待の場、政治家・実業家・文人・華族・軍人の社交場として使われ、東京名所図会や東京銘勝会にも収録された。讀賣新聞を起した「子安峻」が創設者の一人であったため、同社の宴会に用いられることも多かった。「尾崎紅葉」はペンネームを同料亭からとった。
★1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で焼失し、64年の歴史に終止符を打った。4600坪に達した広大な敷地は日本電波塔株式会社に売却され、跡地には東京タワーが立っている。
【芝・能楽堂】
★1881年(明治14)一般への能の開放を目的に建設。伊藤博文などの「歌舞伎推進派」に対抗して、岩倉具視の発案で結成された「能楽社」が中心となって、先ずは芝公園の一角に近代的なクラブ「紅葉館」が設立され、余興に舞台を使わせようとした後、専用の能楽堂として設立された。当初「皆楽社」として計画されていたところ、加賀藩の12代藩主である前田斉泰らの発案で「能楽社」となり、これが“能楽”という言葉の起源となったそうです。そして華族48人が「能楽社」の社員として加わり、舞台建設から検討されたのです。候補地としては上野公園などが挙げられたそうですが、「紅葉館」の建設計画があったので、これと併設する形で芝公園に建設されることになったそうです。そして当時の金額で18,000円の建設費用で進められ、途中、嵐窓の付け方、切戸の取っ手の彫り方といった細部に至るまで「岩倉具視」が現場に訪れ注文をつけていたそうです。そして落成された舞台は、屋根付きの能舞台と観客席を一つの建物に収めた現在の能楽堂の先駆けとして歴史に名を刻んだものなのだそうです。舞台開きには英照皇太后行啓。当初、この舞台は単に「能舞台」などと称されていましたが、1881(明治14)年には「芝公園内楓山能楽堂」とあり、更に翌年の1882年ころから「芝能楽堂」の呼称が一般的になり、「芝公園の能楽堂」、「紅葉館の能楽堂」と呼ばれ、その後「能楽堂」という呼称が能舞台全般に用いられるようになったそうです。しかし、創設当初は良かったものの、次第に経営が悪化し、皮肉なことに“能楽再興”が進展したため、宝生流や観世流などが独自で能舞台を持つようになり、余計この「能楽堂」が使用される機会が少なくなってきたようです。そして当時の「能楽社」の後継会社である「能楽会」は、芝能楽堂の維持を断念して上野博物館、華族会館、日比谷神宮などと舞台引取りを交渉し、1902(明治35)年、靖国神社に奉納して移設し、以降「九段能楽堂」「靖国神社能楽堂」と称されることになったのです。
http://www.yasukuni.or.jp/index.html
・・・大久保利通が「天皇行幸」をすすめ、岩倉具視が「能」を、伊藤博文が「歌舞伎」を推進していたそうで、時代をつくってきた人々の個性というか好みというか、興味はつきません。