博物場(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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中之島公園

明治24年1891大阪初の公園として開設され、水都大阪の代表的な都市公園となった。公園内には、大阪初のビア・ガーデンがオープン。カフェとともに、都市的な憩いを提供する。銀水楼は西洋料理、清華楼は日本料理というように、質の高い料亭も公園内に軒をならべた。現在の中央公会堂の裏手付近には、★「翠柳館という能舞台もあり★「金剛流の能楽が定期的に上演される。自由亭ホテルは、大阪で唯一、外国人が宿泊できる設備を持ったホテルである。ホテルの隣には浪花温泉。なんとも贅沢な公園であったと言えよう。

・・・「大阪博物場」から「大阪天満宮」へ移築、さらに服部住吉神社」へ移築ということで、豊中まで「能舞台(能楽堂)」を観に行ったわけですが、「天満宮」ではどうなっているのでしょう。


かんぜ1


・・・「天満宮」門前に「能舞台」がありました。

■「朝陽会館」

530-0041大阪市北区天神橋1-17-806-6357-0844

http://choyokaikan.com/

朝陽会館は、大阪天満宮、表門前にあり、観世流能楽師シテ方故上野朝太郎によって昭和42年に設立された能舞台です。現在は、長男・上野朝義の経営のもと、様々な発表会やお稽古場として利用されています。

観世流

http://kanze.net/index.php

流祖観阿弥清次(13331384)は山田猿楽の美濃大夫に養子入りした何某の三男で、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年ごろに行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。二世世阿弥元清(1363?1443)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基・佐々木道誉らの庇護を受け、和歌・連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江猿楽の犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。

・・・「金剛流」は何処にあるのでしょう。


かんぜ2


【金剛流】

★「金剛能楽堂」

602-0912京都市上京区烏丸通中立売上ル075-441-7222

http://www.kongou-net.com/index.html

金剛流は能楽シテ方五流派のひとつで、古くは奈良の法隆寺に奉仕した猿楽座の坂戸座を源流とし、室町初期には春日興福寺に勤仕する大和猿楽四座のひとつとなり、のちに金剛座、そして現在の金剛流へと至りました。金剛流の芸風は、豪快でめざましい動きの中にも、華麗・優美さがあり、「舞金剛」といわれます。また、豊臣秀吉拝領の「雪の小面」や艶麗な「孫次郎」など、所蔵する能面・能装束に名品が多いことでも知られ「面金剛」とも言われています。五流のうち四流の宗家が東京を本拠地にしている中で、関西に宗家が在住する唯一の流儀です。1936年金剛右京の死去により、坂戸金剛家は断絶。翌1937年、他の四流の家元の推薦により、弟子家筋である野村金剛家(京都金剛家)の金剛巌が金剛流家元となり、宗家を継承しました。


かんぜ3


平瀬家は特に★金剛流と関わりが深く、露香の父・平瀬宗十郎春温金剛右近氏成(1815-1884)から大曲『望月』の免状が与えられています。金剛流はシテ方五流のうち、江戸時代に刊行された謡本を持たなかった唯一の流派で、明治15年(1882)に至って、ようやく"山岸本"と呼ばれる謡本を刊行しますが、この刊行にも露香は関わっています。宗家・氏成による公認の意味を持つ序文を清書したのが「門生平瀬春枝」露香でした。平瀬家本宅の大座敷は、畳をあげるとその下が檜張りの板の間で、本式の能舞台のように地面には甕が埋められていたそうで「豊公」の能面は明治31年(1898)に、京都豊国神社で行われた豊臣秀吉没後300年祭の際に、平瀬露香が自作自演した能『豊國詣』のために作られた創作面で高台寺に伝わる秀吉像をモデルに打たれた面だということです


かんぜ4


金剛流に伝わ有名な小面があります。★秀吉は関白になったころから能に関心があり、大和猿楽の金春流金剛流を贔屓にしていまし能の座(能の職業集団)に知行や扶持を与えて擁護し、また能面のコレクターでもあり、石川龍右衛門(室町前期の女面の上手)の「雪月花の小面」を何処からか入手し愛玩していまし醍醐寺の僧「角の坊」に観世と金春の能面つを貸し与え写させ、そして5日で仕上げた角の坊に「天下一」の称号を与えまし更に、秀吉は座付制度(大和猿楽を中心にした座の整理統合)を定めましたが、そのことが江戸時代の能の「式楽(公式行事の演芸)」につながっていったということです。このように秀吉お陰で、江戸時代は能楽の隆盛期を迎えることになり、現在の重要な伝統文化の一つとして、継承されてきたです。秀吉愛玩の小面その後「花の小面」は拝領した金剛家が昭和の時代に23世で廃業し、能衣装や能面は全て三井家がそれを買い取り収蔵し、現在は三井記念美術館が保有しています。「月の小面」は徳川家康がもらったのですが、江戸城の火災の時に焼失してしまいました。金春岌蓮が拝領した「雪の小面」は行方不明となり、江戸時代の記録(書上げ)には何も残っていませんでした。ところが、昭和の時代になって京都の野村金剛家(宗家を継承)が「雪の小面」を入手することになり、金剛流宗家25世・金剛巌氏が、昭和57年、その「雪の小面」で能「雪」を舞われました。新聞記事によると、一億円の能面「雪の小面」今に蘇る、と伝えたとのことです。豊臣秀吉は、62才で亡くなりますが、その春、花見をした醍醐の三宝院に黄金の能楽堂を作りたかったとのことです。

角の坊秀吉の命により観世と金春の古面を作り「天下一」の号を与えられる。面裏に焼印を押した最初の人物


かんぜ5


・・・「雪月花」、「月の小面」が焼失したとは、悔やまれますね。